2008年4月30日水曜日

施本「仏教・空の理解」発行出来到着

施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm

本日に発行出来が到着致しました。既に内容についての執着は外しております。また、主にはお盆施餓鬼法要の際にお配りさせて頂くこととなりますが、随時各ご法要の際にも配布させて頂こうと考えております。

これから更に仏教の学びを進めるための文献

「大乗起信論」
 宇井伯寿・高崎直道訳注・岩波文庫
「東洋哲学覚書意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学」
 井筒俊彦著・中公文庫BIBLIO
「縁起と空―如来蔵思想批判」
 松本史朗著・大蔵出版
「本覚思想批判」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
「大乗仏教の根本思想」
 小川一乗著・法蔵館
「チベット仏教哲学」
 松本史朗著・大蔵出版
「無常法―仏教思想研究」
 矢島羊吉著・以文社
「龍樹・親鸞ノート」
 三枝充悳著・法蔵館

施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm




一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月29日火曜日

「チベット仏教哲学」・「大乗仏教の根本思想」

さて、いよいよ明日に施本「仏教・空の理解」の発行出来が到着致します。もちろん、ホームページ・ブログの方では既に先行公開させて頂いております。また、内容についての執着も既に外し、次の論考に入っています。ただ、次の論考については、執筆して文字で表すことになるのは、現状下においてはおそらく相当先になるように思います。浅学非才の未熟者である私の限界でもあり、誠に情けないことでもあります。とにかく少しずつながらでも一歩一歩と考えております。

これから更に仏教の学びを進めるための文献

「チベット仏教哲学」と「大乗仏教の根本思想」が本日に届きました。。

「チベット仏教哲学」

「大乗仏教の根本思想」


「大乗起信論」
 宇井伯寿・高崎直道訳注・岩波文庫
「東洋哲学覚書意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学」
 井筒俊彦著・中公文庫BIBLIO
「縁起と空―如来蔵思想批判」
 松本史朗著・大蔵出版
「本覚思想批判」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
「大乗仏教の根本思想」
 小川一乗著・法蔵館
「チベット仏教哲学」
 松本史朗著・大蔵出版
「無常法―仏教思想研究」
 矢島羊吉著・以文社
「龍樹・親鸞ノート」
 三枝充悳著・法蔵館

施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm




一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月28日月曜日

これから更に仏教の学びを進めるための文献

さて、既に施本「仏教・空の理解」についての内容の執着は外して次の論考に入っておりますが、これから更に学びを進める前提として、特に下記論著の読み込みをまずはしっかりと進めようと考えております。かなり難解な論著がずらりと並んでしまっていますが・・この浅学非才の未熟者では理解がどこまで及ぶものかどうか・・かなり時間が掛かることになりそうですが、とにかく少しずつでも取り組みを進めて参りたいと思います。

「大乗起信論」
 宇井伯寿・高崎直道訳注・岩波文庫
「東洋哲学覚書意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学」
 井筒俊彦著・中公文庫BIBLIO
「縁起と空―如来蔵思想批判」
 松本史朗著・大蔵出版
「本覚思想批判」
 袴谷憲昭著・大蔵出版
「大乗仏教の根本思想」
 小川一乗著・法蔵館
「チベット仏教哲学」
 松本史朗著・大蔵出版
「無常法―仏教思想研究」
 矢島羊吉著・以文社
「龍樹・親鸞ノート」
 三枝充悳著・法蔵館

「本覚思想批判」、本日に届きました。

袴谷憲昭著・大蔵出版

施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm




一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月27日日曜日

生死事大 無常迅速

さて、既に施本「仏教・空の理解」についての内容の執着は外しております。「生死事大 無常迅速 各宣醒覚 謹莫放逸」。仏法の真理探究へ向けて、浅学非才、未熟者の拙僧なりにでも更に精進努力・実践を行っていかなければなりません。とにかく一歩一歩でございます。

施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm




一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月26日土曜日

施本「仏教・空の理解」

さて、いよいよ施本「仏教・空の理解」の発行出来が近日に到着しますが、既にホームページ・ブログの方では全文公開させて頂いておりまして、読者の方からご感想を賜っております。誠に感謝申し上げます。ご感想・ご意見・ご叱正・ご批正をしっかりと受けとめて今後も精進努力をして参りたいと考えております。

施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm




一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月25日金曜日

「縁起と空―如来蔵思想批判」

さて、いよいよ「如来蔵思想」・「本覚思想」についての論考に入っておりますが、まずは、「大乗起信論」宇井伯寿・高崎直道訳注・岩波文庫と「東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学」井筒俊彦著・中公文庫BIBLIOについての再読を行いました。もちろん理解はまだまだであります・・重ねて読み込みを行う予定であります。そして、購入しました「縁起と空―如来蔵思想批判」松本史朗著・大蔵出版が本日に届きました。「如来蔵思想」・「本覚思想」について、正・否の両面からしっかりと考察して参りたいと思います。ここでもどちらにも偏らない、とらわれのない中道的取り組みがやはり大切であると考えております。



施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm




一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月24日木曜日

「大乗起信論」

さて、既に施本「仏教・空の理解」の内容についての執着は離しておりますが、改めて「大乗起信論」宇井伯寿・高崎直道訳注・岩波文庫を読み進めますと、以前よりか遙かに理解が及んできたような気がしております。施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」で唯識派の唯識論の考察を行い、そして施本「仏教・空の理解」で中観派の空論の考察を行ってきました。何とかその甲斐もあってであると、未熟者・浅学非才の身ながらも思います。とにかく一歩一歩であります。

施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm




一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月23日水曜日

「如来蔵思想」・「本覚思想」

さて、施本「仏教・空の理解」につきましては、前二作と同様に、もう既に内容についての執着は離しました。そして、現在、早くも次の論考に入りかけておりますのが、「如来蔵思想」・「本覚思想」についてであります。

そのためにもまずは、「大乗起信論」宇井伯寿・高崎直道訳注・岩波文庫と「東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学」井筒俊彦著・中公文庫BIBLIOの更なる読み込みと考察・理解、そして次に「縁起と空―如来蔵思想批判」松本史朗著・大蔵出版と「本覚思想批判」袴谷憲昭著・大蔵出版に取り組むことと致します。後半の二冊は、理解に相当な難解さを極めるような気がしておりますが、おそらく今後避けては通れないものであるとも認識致しております。

仏教の真理探究の旅は、とにかく一歩一歩でありますが、しっかりと着実に真摯に取り組みを進めて参りたいと考えております。

施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm




一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月22日火曜日

施本「仏教・空の理解」・第十章・諸法実相・真如について

施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm





十、諸法実相・真如について

 「諸法実相《しょほうじっそう》」とは、あるがままの真理をあるがままに、自他分別無く、差別無く、平等に観じ察する境地のことであります。

 「諸法実相」のことは、「円成実性《えんじょうじっしょう》」・「真如《しんにょ》」とも表しますし、または「無相」・「実際」・「法界」・「法性」・「仏性」・「法身」・「涅槃」・「無為」・「如来蔵」などの言葉も同義として表されることがあります。

 「円成実性」・「真如」につきましては、前回の施本における「唯識論」の三性《さんじょう》の説明の中でも扱わせて頂きました。

三性

遍計所執性《へんげしょしゅうしょう》・・存在におけるあまねく全ての表象について、虚妄分別したものの「我」に執着してしまうこと。または執着できるものだとして、勘違いしてしまっていること。

依他起性《えたきしょう》・・この世のすべての存在が、他の何かを縁(因縁生起)として、はじめて成立しているということ。存在の「空性」(縁起空)・「無自性」のこと。

円成実性《えんじょうじっしょう》・・依他起性をそのまま依他起性として正覚して(空性(縁起空)・無自性の正覚)、遍計所執性(虚妄分別)を離れること。

 「諸法無我」の法理によって、遍計所執性においては、「我・主体・主観」によって感受した、他のものに対しての認識・判断には、当然に固定した実体としての「我」は無いので、その存在は、「無自性」として(都無《とむ》・実無)、依他起性においては、存在について、ただ「空」(縁起空)として(仮有《けう》)、このことを理解した上で、では、この世の存在の真実(実有《じつう》)は何であるのかについて、「無自性」・「空」(縁起空)が、この世の存在の真実として、そのことを「円成実性《えんじょうじっしょう》」と表しています。円成実性は「真如《しんにょ》」とも言われます。」・・

 と、述べさせて頂きましたが、元々「唯識論」に先立って、「中論」は著されていることもあり、中観派の空論については、「唯識論」にも大きな影響を与えている背景が、私の浅学非才、未熟なる内容における「無自性」、「空」(縁起空)の記述からも少しは伺えるのではないかと思います。

 しかし、確かに「無自性」、「空」(縁起空)という言葉が出てきておりますが、その本当のところの理解については、非常にまだまだなところが多くあったため、その反省から、今回、中論を中心として、縁起、空の理解を改めて進めさせて頂きました次第であります。

 特には、「縁起空」における、「縁起」の「相互依存的相関関係、相依性」について考えることができました。

 さて、「諸法実相」でありますが、既に先にも述べさせて頂いておりますように、「非非有非非無」・「無分別の分別」を超えて、言語表現が不可能となった領域であり、戯論(形而上学的議論)が滅された勝義諦の扱いになります。

 このことは、中論・「観法品」(第十八・第五偈)『業と煩悩とが滅すれば、解脱が〔ある〕。業と煩悩とは、分析的思考(分別)から〔起こる〕。それら〔分析的思考〕は、戯論(想定された論議)から〔起こる〕。しかし、戯論は空性(空であること)において滅せられる。』、中論・「観法品」(第十八・第七偈)『心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。』、中論・「観法品」(第十八・第九偈)『他に縁って〔知るの〕ではなく(みずからさとるのであり)、寂静であり、もろもろの戯論によって戯論されることがなく、分析的思考を離れ、多義(ものが異なっている)でないこと、これが、真実〔ということ〕の特質(相)である。』として記述されておりますように、もはや、戯論(形而上学的議論)が滅された言語表現不可能なるところのものであり、残念ながら、当然に私もこれ以上、もはや記述のしようがなくなり、解説が無理なこととなっております。

 さて、あとは、それぞれにおける四法印・四聖諦の真理の真なる理解、八正道、戒・定・慧の三学、八大人覚《はちだいにんがく》(少欲・知足・楽寂静・勤精進・不忘念・修禅定・修智慧・不戯論)、五根五力(信・精進・念・定・慧)、七覚支《しちかくし》(念・択法《ちゃくほう》・精進・喜・軽安・定・捨)、「六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)、更に方便・願・智・力の四つを加えての十波羅蜜」に加えて、今回の施本の内容における「空仮中の三諦」・「世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦」・「相互依存的相関関係、相依性の縁起」の確かなる学び、理解、実践によってこそ、表現できないところのことも含めて、真に正覚し、智慧を開発していかなければならないものであると考えております。共に精進努力して参りましょう。

 また、この浅学非才、未熟なる者のこの内容においてでも、少しでも読者の皆さんの仏教の学びが進み、迷い苦しみが無くなって、心が安らかに、清らかとなり、慈悲喜捨の実践を行うことに繋がって頂けたとすれば、誠に幸いなることでございます。

十一、最後に

 この度は、誠に未熟で浅学非才の身でありながら、僭越にも、仏法につきまして私なりの解釈・理解を更にまとめさせて頂きました。

 もちろん、まだまだ至らない点も多々あるものと思われますので、その点、ご容赦の程を賜りますればと存じます。少しなりとも皆様方にとって、仏法のご理解、学びを進められるお役に立つことができたと致しましたら、誠に幸いでございます。

 また、今後、この施本の内容・文章に関しまして、誤字脱字の訂正、追記補充、修正・変更、削除などが少なからずも出てくるものと考えております。更には、これからの自身における仏教の学びの進み具合におきまして、解釈上の修正・変更も考えられます。

 これらのことを考慮しまして、発行後、ホームページ上にて、全ての文章を公開させて頂いた上で、随時、修正・変更などをお示しさせて頂きますので、前二作と共に、今後、機会がございましたら、ご確認を頂きますように宜しくお願い申し上げます。

 往生院六萬寺ホームページ内(URL:http://oujyouin.com/)か、もしくは施本の題名と私の名前で検索して頂ければ、そのページをご覧になれるものと思います。

 この本の初版は、施本としまして著者・川口英俊の自費出版により発行させて頂きました。ご入用の方は、往生院六萬寺までご連絡下さい。数に余裕がありましたら、ご送付させて頂きます。

 また、増刷、次回刊行へ向けまして、施本にご賛同ご協力頂けます方のご支援を「施本布施」として、郵便局内にある「払込取扱票」をご利用下さいまして、ご送金賜りますれば、誠に幸いでございます。
 
往生院六萬寺
郵便振替番号 00910-3-330569
※必ず「施本布施」と通信欄にお書き下さい。

最後になりましたが、この施本の刊行に際しまして、ご協力を賜りました方々に、心から感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
 
 生きとし生けるものたちが、幸せでありますように。三界における全てのものたちが、苦しみから解脱し、安楽なる涅槃へと至れますように。

平成二十年四月八日

川口 英俊 合掌


 著者プロフィール

 川口 英俊(かわぐち えいしゅん)
 昭和五十一年 東大阪生まれ
 臨済宗妙心寺派・禅専門道場で修行
 岩瀧山往生院六萬寺 副住職
 URL:http://oujyouin.com/
 他、参照 URL:http://www.hide.vc/

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
Copyright (C) 2008 Hidetoshi Kawaguchi. All Rights Reserved.


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

施本「仏教・空の理解」・第九章・慈悲喜捨の実践について

施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm





九、慈悲喜捨の実践について

 とにかく、今回は、「空」と共に「相互依存的相関関係、相依性の縁起」についての論考が中心となっているわけでありますが、私たち人間は、本当に様々な恵みによって支えられているわけであります。

 普段はあまり気にも留めない「空気中の酸素」も、私たちは呼吸して、体にその酸素を取り込まないと生きていけなくなります。その酸素は、植物の光合成によって作られるわけですが、そのためには、もちろん、植物と、太陽光、水、二酸化炭素などが必要となり、水は主に、太陽の働きや地球の大気の働きによって海水が蒸発し、やがて雲となり、雨となって降って得られるものであり、二酸化炭素は、動植物の呼吸などによって生じています。または、火山活動・山火事などの自然活動からや、現在では残念ながら地球温暖化の主原因として、人間活動における化石燃料の消費からも大量に二酸化炭素が生じてしまっています。

 更に、植物の生長のためには、それぞれの植物に応じて、様々な養分も必要になるわけであります。その養分も、動物の排泄物・死骸をバクテリア・細菌が分解したものでありますし、また、植物が子孫を残すための受粉の媒介には、多くの動物(特に昆虫)が活躍して関わっています。

 このように、いわゆる食物連鎖・循環の生態系の中で、互いに関わり合って生存しているのであります。人間も様々な職業があってこそ社会の営みが成り立って、人が活動できているように、私たちは、この大いなる「相互依存的相関関係、相依性の縁起」の中で過ごしています。

 もしも、人間だけの世界、動物だけの世界、植物だけの世界(それぞれの自己肯定の進行)では、この食物連鎖の関係が崩れてしまい、やがて、その一方の自己肯定の進行が続いてしまえば、結局は相互否定・自己否定に陥ってしまうのであります。つまり、人間、動物、植物だけの世界は、自然界においては成り立たないのであります。

 しかし、人間は、現在、強欲にも自然を支配しよう、思い通りにしようと、そのエゴ(自我)、エゴイズム(利己主義)を出してしまい、資源をむさぼり、自然環境を破壊し、生態系を狂わせつつありますが、それは、結局、人間の生存そのものを危うくさせてしまっているのであります。

 化石燃料をむさぼり、このまま消費しながら燃やし続けていけば、大気汚染、公害、酸性雨などの問題、温室効果ガスによる地球温暖化の諸問題が生じ、生態系の狂いによって、動植物の種の絶滅、ある意味で人為的に産み出されている強毒性ウイルスの脅威など、まさに人災とも言える自己否定の進行は、一層顕著になってしまいます。

 人類・人間は、速やかにこの愚かな所業に気づき、反省して、「生かされて生きている」という「相互依存的相関関係、相依性の縁起」を自覚して、感謝、報恩、慈悲喜捨の実践を行うようにしていかなければ、このままでは自己否定の進行が更に進んでしまうことを止めることができないのであります。

 もちろん、ここで、環境問題について、あまり考えすぎて、とらわれてもいけません。極端な偏見に陥ってしまえば、それは無・断滅への執着に繋がり、悲観主義・虚無主義に陥ってしまうからであります。

 例えば、人類が早めに絶滅して、地球上から完全にいなくなってしまった方が、資源のむさぼりもなくなり、無惨にも殺されて絶滅していく動植物の苦しみもなくなり、究極の自然環境保護、生態系保護になるというような極端な偏見を持ってしまえば、一気に自己完全否定へと向かってしまう恐れが生じてしまうからであります。ここでも「非有非無の中道」は、しっかりと担保し、極端にとらわれない、執着しないようにしておかなければならないのであります。

 そのためにも、「無常」、「無我」、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」をしっかりと理解した上で、人類存亡の危機を脱するためにも、「慈悲喜捨」を実践していかなければならないのであります。「慈悲喜捨」につきましては、施本「佛の道」においても扱わせて頂きました。

・・「慈《じ》・悲《ひ》・喜《き》・捨《しゃ》は、四無量心《しむりょうしん》とも言われるものであり、悪い感情を静めて心を清らかにし、また煩悩を無くしていくためにも、仏教においては大切な実践になります。

 慈は、慈しむ心のこと、または友情心のこと、悲は、憐(哀)れむ心のこと、喜は、一緒に喜ぶ心のこと、捨は、偏見や差別を捨てる心、または平等で落ち着いた平穏な心のことであります。

 慈悲と二語で表されることもあり、この場合、慈は、慈しむ心で楽を与えること、悲は、憐(哀)れむ心をもって苦を抜くことで、抜苦与楽《ばっくよらく》とも言われます。喜捨も二語で表されることがあり、我執、偏見、差別を捨てて、一切のものに対して平等の心を持ち、共に喜びを分かち合うことであります。

 四無量心は、あらゆる全てのものに対して変わらない平等の慈しみ、優しさを持つこと、一切皆苦の中で、あらゆるものが苦しんでいることを憐(哀)れみ、「我」を捨てて「無我」を自覚し、「我執」・「妄執」・「愛執」などの執着も捨てて、煩悩を滅し、苦しみから解脱した喜びを共に分かち合うために必要な心のあり方を示す重要なものであり、涅槃へと向かうために、このことを常に念じ、実践することが大切となります。」・・

 と、無分別、無差別《むしゃべつ》、不二の平等による慈悲喜捨の実践が求められるのであります。そうしない限り、私たちは、思惟分別・相対矛盾に悩み苦しみ続けながら、やがて、相互否定・自己否定への道を確実に歩んでしまうことになるのを覚悟しなければならないのであります。

 慈悲喜捨の実践を考える上で大切なことについて、「ブッダのことば・スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫」、第一・蛇の章・八・慈しみ(一四三偈~一五二偈)から引用しておきたいと思います。

『究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和《にゅうわ》で、思い上ることのない者であらねばならぬ。』

『足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。』

『他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏《あんのん》であれ、安楽であれ。』

『いかなる生物生類《いきものしょうるい》であっても、怯《おび》えているものでも強剛《きょうごう》なものでも、悉《ことごと》く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大《そだい》なものでも、

目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。』

『何ぴとも他人を欺《あざむ》いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。』

『あたかも、母が己《おの》が独《ひと》り子を命を賭けても護《まも》るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。』

『また全世界に対して無量の慈しみの意《こころ》を起すべし。
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。』

『立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥《ふ》しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。』

『諸々の邪《よこし》まな見解にとらわれず、戒《いましめ》を保ち、見るはたらきを具《そな》えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。』・・

 まさにこの慈しみの実践こそが、悩み苦しみを無くして、私たちを幸せにし、心を清浄に保つ法なのであります。

 目に見えないどんな細菌・ウイルスたちであろうが、ミミズであろうが、ゴキブリであろうが、普段は気にも留めない雑草たちであろうが、どんな形・大きさの生き物であろうとも、みんな「相互依存的相関関係、相依性の縁起」の中、精一杯、一生懸命に頑張って生きています。人間の勝手な都合、自己中心的・独善的な利己主義において殺してよいものなど、この世には何一つもないのであります。

 「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏《あんのん》であれ、安楽であれ。」として、何人といえども、いかなるものに対しても、生きていくためにやむなく犠牲にしてしまっているものたちに対しても、命を繋いでくれている恵みに深く感謝して、共生、共存、報恩の実践も忘れないようにしなければならないのであります。

 また、施本「佛の道」でも紹介させて頂きました「日本テーラワーダ仏教協会」さんの慈悲の瞑想の言葉もここに記しておきたいと思います。

慈悲の冥想

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願い事が叶えられますように
私に悟りの光が現れますように

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願い事が叶えられますように
私の親しい人々に悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願い事が叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように

私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願い事が叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願い事が叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

                              慈悲の冥想ここまで

 たとえ少しずつでも、毎日継続して、慈悲喜捨の念と実践が行えるように、しっかりと調えて参りましょう。
 
 七仏通誡偈《しちぶつつうかいげ》

 「諸悪莫作《しょあくまくさ》
 衆善奉行《しゅうぜんぶぎょう》
 自浄其意《じじょうごい》
 是諸仏教《ぜしょぶっきょう》」

 「すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、--これが諸の仏の教えである。」(「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳 岩波文庫)

 仏教の真なる理解・実践によって、私たちそれぞれの迷い・苦しみを無くし、更に人類の抱えてしまっている迷い・苦しみも無くして、心の平安・安穏を得て、確かなる平和・幸福が訪れることを強く希求申し上げる次第でございます。誠に精進努力して参りましょう。

・・第十章に続く。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
Copyright (C) 2008 Hidetoshi Kawaguchi. All Rights Reserved.


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月21日月曜日

施本「仏教・空の理解」・第八章・悩み苦しみを超えて

施本「仏教・空の理解」
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八、悩み苦しみを超えて

 さて、これまで考察して参りましたように、私たちの悩み苦しみの原因は、主に思惟分別・虚妄《こもう》分別したことに、とらわれて執着してしまうことにあります。

 悩み苦しみを無くすためにも、今回は特に「縁起」の理解が大切となります。

 もちろん、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」のあり方は、実に難解であり、第五章にて「火と薪のありよう」、「明と暗とのありよう」についてそれぞれ考えましたように、分別してしまうと、相互対立・相対矛盾に苦しむことになるわけです。

 次にこのことを更に具体的に現在の人類社会について当てはめて考えてみますと、より鮮明になると思います。

 まずは、自然と人類との関係について考えてみましょう。思惟分別した相対矛盾の中、いずれかの肯定が始まると、やがてそれが一方の否定へと繋がり、一方の肯定がそのまま進行していけば、最終的に相互否定になってしまうというありようについてであります。

 自然と人類の両者は不二として、この地球上にて存在しています。

 この場合における自然の肯定というものは、天災、いわゆる気候変動・地殻変動、巨大火山・巨大地震、台風・ハリケーン・竜巻、外的要因としての隕石衝突、太陽風・磁力線・紫外線の増大などを挙げることができます。

 自然の肯定進行は、私たち生命を脅かすものであります。太古の地球上においても繁栄を極めていた恐竜の絶滅などが、それに当たると言えるでしょう。しかし、このことはあくまでも、人類・人間の都合・価値観・自己満足・独善的観点から見てのことであり、自然は自然であるがままであるため、正確には、自然摂理(宇宙原理)が(分別したものと相互)否定へと至って、消滅すると考えることは、やや早計でありましょう。

 つまり、自然摂理(宇宙原理)は、特に人類が存在していようが、いまいが、それは何ら関係なく縁起なる無常の中、移ろい変わりゆくということであります。

 要するに人類の自然に対する関係は、一方的な依存関係でしかないということであります。ですから、実は不二の関係にないとも言えるわけであります。

 どういうことかと言いますと、自然が無ければ人類は存在しえないが、人類がいなければ自然が存在しえないわけではないのであります。人類の有無に拘わらず、宇宙は宇宙のあるがまま、自然は自然のあるがままだということであります。

 また、自然を生命が暮らせるような環境としても、このことは同様であり、しかし、それも宇宙原理的には、数十億年後、数百億年後には、地球も太陽もやがては燃え尽きて宇宙の塵となり、当然に終焉してしまうことについても、しっかりと理解しておかなければなりません。

 では、次に人類の肯定進行について考えてみましょう。いわゆる自然環境破壊の問題についてであります。

 人類が人類として、それぞれの人間が人間として、その存在について、固定した実体として捉えて、その存在を肯定する方向(開発・発展・繁栄、自然支配)へと進めていくと、皮肉にも、食糧・天然資源・化石燃料の貪り、公害・環境破壊、地球温暖化という、己の存在する前提となっている自然・生態系そのものの否定へと繋がってしまいます。

 やがて、この場合の人類・人間における肯定が進行していくと、自然破壊・環境破壊の結果を強めていき、食糧としての動植物の減少・絶滅、天然資源・化石燃料の枯渇などを余儀なくされ、人類・人間の存在そのものが危うくなり、自己否定に繋がってしまうのであります。

 つまり、自然と人類は、一応は不二として相互肯定の関係でうまく調和を保っていたものが、いつしか人類文明の発展・繁栄という一方の肯定進行(この場合は特に人類の側における肯定進行のみ)によって、最後には相互(特に人類の側の自己)否定という結果になってしまうわけであります。

 残念ながらも人類は現在、自己否定の道を歩み続けていると言えます。自然破壊・環境破壊は、自分で自分の首を絞めつつあるという「人災」と言っても過言ではない、皮肉な状態となってしまっています。

 次に戦争について考えてみましょう。

 戦争は、主に資源の奪い合いが原因となっていますが、国・民族、体制・主義・思想・宗教を実体化させて肯定させて(開発・発展・繁栄)いこうとすればするほど、当然に、国土・資源・労働力、体制・主義・思想・宗教の維持拡大が必要となって参ります。

 また、国や民族、体制・主義・思想・宗教という実体のない(概念的な)ものをまとめていくためには、「明と暗のありよう」の考察で述べましたように、相反するものを周りに設けて、自己をきわだたせていかなければなりません。

 そのために、相対する国や民族、体制・主義・思想・宗教を持つ敵を作っていき、やがて、更に肯定を進行させようとして、侵略・支配(他への否定)が始まるわけであります。

 しかし、更に国・民族、体制・主義・思想・宗教という実体のない(概念的なもの)をきわだたせようと敵を増やし続けて、侵略・支配していけば(肯定の進行)、やがてはその他の多くの周りが敵となって、その内に敗北していくことになったり、内部矛盾による崩壊などからも自己否定へと繋がってしまうようになります。このことは歴史上においても多々見られてきたことであります。

 更に、人類間の世界・国・自治体・社会・地域における様々な営みは、相互肯定的に成り立っている存在であるのに、戦争は、大きな意味でも小さな意味でも人類間の相互否定に繋がることも行われていくこととなります。

 大きな意味では、「軍拡・兵器開発」・「核兵器開発」を挙げることができます。特に核開発における核兵器は、やがて全人類を何度も死滅させうるだけの量を世界が保有することとなったため、もしも全面核戦争が起こってしまえば、一瞬で人類そのものの完全否定となるところまで進んでしまいました。

 シカゴ大学にある、核戦争による人類の滅亡を「世の終わり」(終末)として、その終末(午前零時に設定)までの残り時間を象徴的に示す時計である「世界終末時計」は、現在のところ「五分前」まで針が進んでしまっています。二○○七年には、環境破壊(地球温暖化など)による人類滅亡をも考慮されることになりました。

 もしも核兵器による大戦争が起こってしまえば、または、エネルギー開発の結果として、その便利さの恩恵の一方で、多大なリスクを抱えてしまっている原子力発電所の大規模事故災害が生じてしまえば、そこに住む人間のみならず、あらゆる生命をも死滅させてしまうことにもなり、更に何百年、何千年、何万年にもわたって、放射能の影響を受けて苦しむことになってしまうのであります。生命が存続していくための自然環境にも壊滅的なダメージを与えてしまうため、まさに完全なる自然と人類との相互否定になってしまうわけであります。

 もちろん、第二次世界大戦末期に、アメリカによって日本に投下された原子爆弾による破壊の凄まじさ、惨劇を目の当たりにした人類は、自らの産み出してしまったものに対しての恐ろしさ、愚かさ(相互否定に繋がるもの)にも大いに気づき、その後の反核運動、平和運動にも繋がっていったわけであります。

 原子力発電についても、チェルノブイリ原子力発電所の大事故がもたらした惨劇・悲劇の反省から、その諸刃の剣の扱い方について、より慎重さが求められるようになりました。

 また、もう少し身近な話題としましては、様々な犯罪についても同様に、個人・仲間・団体のエゴ(自我)・エゴイズム(利己主義)・自己中心的な言動が強まってしまう(自己肯定の進行)と、より一層、他との相対矛盾、対立関係に陥って苦しむことになり、更に自己肯定の進行が進んでしまえば、他への攻撃、殺傷・強盗事件などを起こしてしまい(他への否定の進行)、それはやがて復讐・報復などによる身の破滅を招いたり、禁固・懲役・死刑・解散などの罰を受けることにもなったりと、自己否定へと繋がっていくことになるのであります。

 このように、人類・人間・民族・個人・仲間・団体・国などが、独善的自己満足の便利さ豊かさを求めて、開発・発展・繁栄のために、エゴ(自我)・エゴイズム(利己主義)をあまりに押し出してしまう(自己肯定の進行)と、それはやがて自己否定へと向かってしまうことについて、何事をするにしても事前に私たちはしっかり自覚しておかなければならないのであります。

 同じようなことは、生命倫理に係わる遺伝子操作や遺伝子組み換え、ヒトクローン研究などについても言えることであります。

 以上、考えて参りましたように、これらの人類の抱えている悩み、苦しみの根源は、本当は実体のない、知りえない、分かりえない「我」へのとらわれ、執着がもたらしてしまっているのであります。

 それがゆえに、今一度、「諸法無我」の法理の理解を行っていかなければならないのであります。その補完として、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」の理解を進めることが、実に重要で大切なことにもなるのであります。

 諸行無常、諸法無我、縁起のありようの理解が進んでいけば、当然に「煩悩」も滅されていくことになります。

 煩悩は数多くありますが、特に根本煩悩・三毒として「貪欲《とんよく》(むさぼり)・瞋恚《しんに》(激しい怒り)・愚痴《ぐち》(おろかさ)」が挙げられます。

 貪欲は、特に人間活動における衣・食・住において、本能的生存欲求を超えて、必要以上にまでむさぼるということですが、満足できる、欲を満たしてくれる固定した実体としての自分という「我」、対象の「我」があるとして、迷妄の中、追い求めて執着することから生じてしまっています。

 つまり、「四苦八苦」の中における、「求めても求めても得ることができない」という苦しみ、「求不得苦《ぐふとっく》」であります。主には所有欲になります。

 もちろん、所有できるものが「有る」とする迷妄について、中論では、「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』とあるように、無くさなければならないもので、「本来無一物」のことであります。

 これも、「無我」、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」を理解し、自分の「我」、対象の「我」も互いに、実体のない、知りえない、分かりえないものとして理解できれば、むさぼりも自ずと無くなり、必要以上に何かを求めても意味がない、価値がないもので、むしろ余計な苦しみが付き従うだけであると気づいて、悩み苦しみを無くさなければならないのであります。

 このことは、施本「佛の道」・第十章・無執着におきましても、・・「人間は、財産(お金・土地・モノ)、恋人、伴侶、家族、親族、仲間、見栄、名誉、地位、権力など様々なものに対して、あまりに渇愛・執着が生じてしまうと、次第にそれらに束縛されて、やがてはそれらがその人間を支配してしまうまでに蝕み続け、様々な苦しみが付き従って離れないようになってしまいます。そのようなまま、あまりに離れないようにまでがんじがらめにしてしまうと、やがて最後に不満・不安・心配・絶望・恐怖などの悪い感情を抱えて極限の苦しみの中で死を迎えることになるので注意が必要になります。

 ・・とにかく、皮肉にも世間では喜んで手に入れようと必死になっている執着・束縛対象、無常・無我・苦を知らないうちに抱えてしまった苦しみの原因となる執着・束縛対象、財産(お金・土地・モノ)、恋人、伴侶、家族、親族、仲間、見栄、名誉、地位、権力などは、これからできる限りに無常・無我・苦をしっかりと念頭においた上で、その接し方、心構え、扱いについて気をつける、また、必要最低限以上におけるものは離していきながら、執着せずに苦しみを少しでも無くしていくことが望ましいのであります。いつまでも愚かに自ら好んで苦しみの原因を、何ももうこれ以上作る必要は全くありません。」・・と述べさせて頂きましたように、悩み苦しみを無くしていくためには、「少欲知足」の実践が大切なことになるのであります。

 次に、瞋恚でありますが、激しい怒りが起こるのは、自分にとって気に入らないこと、自分の思考・主張・思想・主義と反する言動を受けることなどから不満が生じるのが、主な原因ですが、なぜ不満になるのかが分からないために、怒ってしまうわけであります。

 これも、貪欲と同様に満足できる、欲を満たしてくれる固定した実体としての自分の「我」、対象の「我」があるとして、それらに執着してしまうことから生じるわけであります。「無我」、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」が理解できれば、瞋恚の苦しみも自然に無くなるわけであります。

 最後に愚痴、おろかさですが、愚痴は無知、無明とも言われることがあり、真理について知っていない、真理に明らかでない、真理に暗いことであります。

 これは、まさに苦しみ、迷い、煩悩の根源でもありますが、これも原因は、「無常」、「無我」、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」を知らないことによって生じてしまうわけであります。

 特には、「四諦・八正道」についての学び、理解と実践を進めていくことによって、愚痴は徐々に無くなっていくようになるわけであります。この浅学非才、未熟者の施本からの学びにおいてでも、愚痴が少しずつ無くなっていけば、誠に幸いでございます。

 また、貪欲・瞋恚・愚痴は、思惟分別するところによっても生じてしまいます。貪欲・瞋恚・愚痴を無くしていくためには、しっかりと「無分別」の理解も進めていかなければならないのであります。

 このように、その他、多くの煩悩も、諸行無常、諸法無我、縁起のありようの理解が進めば、自ずと無くなっていくわけであります。しっかりと学びを進めて実践に精進努力していかなければならないのであります。

 施本「佛の道」・第十七章・煩悩への対処におきましては、・・「なかなかに煩悩は無くならず次から次に生じてくる、でもその煩悩を相手にせずに、その煩悩から出てくる「我」・「渇愛」・「妄想」などに執着をせずに、ほったらかしにしておくことで「煩悩」を離しておけば、生じてくる煩悩について、ついつい無理に「無くさなければ」、「無くさないと」と考えなくても済むようになります。

 煩悩が出てくれば、「ああ、また出てきたのか、こんにちは、でも、さようなら」としておくのであります。そうすれば、様々な煩悩もすぐに生じては滅する無常なる中、あっという間に過ぎ去っていきます。囚われてしまうと苦しみになりますので、それだけは気をつけておかなければいけません。・・煩悩・執着物・所有物・束縛物が生じるのはやむを得ないとして、すぐにさようならをしておくことで、苦しみを無くすようにしてみましょう。多少はまだまだそれらに囚われるのは仕方のないことですが、さようならをするために掛かる時間を徐々に短くしていき、やがては生じたその瞬間にしっかりとさようならをしていけるようになれば、それで苦しみの無い、涅槃になると言えるのではないかと思います。」・・と述べさせて頂いておりますが、今回、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」のあり方から再び考えますと、「こんにちは、さようなら」とするだけでなく、「こんにちは、『ありがとう』、さようなら」と、生かされて生きているという感謝の意の『ありがとう』を追加したいと存じます。

 あらゆるものの生滅変化について、差別《しゃべつ》なく、平等に、「こんにちは、『ありがとう』、さようなら」と常に思えるように、またその実践も調えていければ、悩み苦しみを超えることができるのではないかと考えております。

・・第九章に続く。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月20日日曜日

施本「仏教・空の理解」・第七章・生と死を超えて

施本「仏教・空の理解」
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七、生と死を超えて

 さて、無分別について、先の章で考察して参りましたように、この世における存在・事象は、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」・「無自性」・「空性」により成り立っており、また、その本当のところは、知りえない、分かりえない、無分別なる「幻」・「蜃気楼」・「夢」なるものとして、つまるところ、当然に、その生じるということも知りえないし、分かりえない、滅することも知りえないし、分かりえないというわけであります。

 にもかかわらず、私たちは生滅・生死分別に迷い苦しんでしまっています。生も死も分別して考えることは、二項対立・二元対立の相対矛盾に陥って悩み苦しむことになるため、当然に避けなければならないのであります。

 これは、もちろん、「八不」の中の「不生不滅」のことであり、中論・「観涅槃品」(第二十五・第三偈)『〔何ものも〕断ぜられることなく、〔あらたに〕得ることなく、断滅でなく(不断)、常住でなく(不常)、滅することなく(不滅)、生ずることのない(不生)、これがニルヴァーナである、と説かれる。』、また、中論・「観法品」(第十八・第四偈)『外に対しても、また内に対しても、〔これは〕「我がものである」「我れである」という〔観念〕が滅したときに、執着(取)は滅せられる。それの滅によって、生は滅する。』とありますように、生と滅(死)のいずれかに執着してしまって苦しむことからも離れなければならないのであります。

 では、具体的にどのように、あらゆるものの生滅変化に際して、あらかじめ思慮しておくべきなのかについて、少し考えておきたいと思います。

 このことについては、偉大なる悟りを開かれたお釈迦様のお亡くなりになった前後のことについての記述がある「大般涅槃経」を参照に致します。邦訳は、「ブッダ最後の旅」中村元訳 岩波文庫(大パリニッバーナ経・大般涅槃経)の引用であります。

 お釈迦様の最後の時を察し、号泣しているアーナンダに対して、お釈迦様はこのようにおっしゃられました。

 「やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、--すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(=ゴータマ)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努めはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。」

お釈迦様、最後の言葉

 「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」
 これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。

お釈迦様がお亡くなりになった時

 尊師が亡くなられたときに、亡くなられるとともに、神々の主であるサッカ(=帝釈天)が次の詩を詠じた。--「つくられたものは実に無常であり、生じては滅びるきまりのものである。生じては滅びる。これら(つくられたもの)のやすらいが安楽である。」

 お釈迦様がお隠れになられた時、まだ愛執の離れていない修行僧たちは、嘆き悲しみ苦しみに打ちひしがれましたが、既に愛執を離れた修行僧たちは、
 
 「およそつくられたものは無常である。どうして(滅びないことが)あり得ようか?」とよく耐え忍びました。

 尊者アヌルッダは修行僧らに告げた、--「止めなさい。友よ。悲しむな。嘆くな。尊師はかつてあらかじめ、お説きになったではないですか。--〈すべての愛しき好む者どもとも、生別し、死別し、死後には境界を異にする〉と。友らよ。どうしてこのことがあり得ようか?何でも、生じ、生成し、つくられ、壊滅してしまう性のものが、壊滅しないでいるように、というような、こういう道理はあり得ない。・・」

 お釈迦様がお亡くなりになったとき、サッカ(=帝釈天)が詠じたとされる詩は、施本「佛の道」・第五章・涅槃寂静においても取り上げさせて頂いております。

「諸行無常
 是生滅法
 生滅滅已
 寂滅為楽」

 私の解釈

「諸行は無常であり、これは生じては滅するという理《ことわり》である。この生滅の理の真実が正しくそのままを理解できずに悩み煩ってしまうことが、私たちの苦しみの原因であり、この苦しみの原因となってしまっている妄想の集まりである煩悩の生滅を滅しおわって、煩悩を完全に寂滅して、ようやくに苦しみから解脱した安楽なる涅槃・悟りの境地へと至ることができるのであります。」

 と、「大般涅槃経」の内容の引用を見ましたように、愛するものへの執着、愛執を離す上で、「諸行無常」・「諸法無我」をしっかりと理解することが求められるわけであります。

 そして、中論においては、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」・「無自性」・「空性」も、その理解を進める上で大切なこととして説かれているのであります。

 このことは、中論・「観法品」(第十八・第七偈)『心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。』とありますように、しっかりと「不生不滅」、「八不」を理解して、戯論(想定された議論)を滅して、生滅・生死分別の迷妄からも離れなければならないのであります。

・・第八章に続く。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月19日土曜日

施本「仏教・空の理解」・第六章・無分別について・再考察

施本「仏教・空の理解」
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六、無分別について・再考察

 これまでも考察して参りましたように、「無分別」とは、この世におけることは、分別できないとして、相対矛盾の無くなったことを言うわけであります。このことは、前回施本、今回においても「而二不二」から考察しましたが、今回は「中論」からも補完して参りたいと思います。

 世間・世俗の中においては、「薬と毒」の関係で考えましたように、便宜上、人間の都合において認識・識別・判断するために、様々に思惟分別するのはやむをえないことでありますが、この「やむをえない」ということを理解して、本当はどちらがどちらともいえないもの、知りえないもの、分かりえないものであるということは、必ずどこか頭の片隅に置いておくことが、重要なことになるわけであります。

 このように理解しておけば、物事を進めていく上において、より慎重に、よりリスクを見極めて、使い方・扱い方、用法・容量も間違えずに、適切に世の中を過ごして、安心、安全に生きていけるように様々に対処することができるようになっていくわけですが、このことが「無分別の智慧」というものではないかと考えます。

 また、無分別を考える上の例えとしまして、人類が誕生する以前の地球、太陽系、宇宙のありよう、また、人類が先で絶滅した後の地球、太陽系、宇宙のありようを想像してみてはどうでしょうか?

 もちろん、そこでは思惟分別、相対矛盾が生じる余地は全くなくなります。自然、宇宙はそのまま、あるがままであり、この点で、無分別について想像することは、誠に容易ではないかと思います。

 ただ、このことが、「無・断滅」への偏見、執着となってしまってもいけませんが、人類の存在しなかった地球があったのは事実であり、また少し考えても数億年後にこの地球に人類が存在している確率は、ほとんどゼロに近いと考えても差し支えがないようにも思います。

 もちろん、このことは、私たちの存在が「有る」という前提での想像であり、非有非無なる中道から、このようなことを考えてしまうのは、世俗諦としての無分別の理解としては、参考になりますが、勝義諦(第一義諦)としては、戯論であり、おそらく沈黙せざるをえないようにも思います。つまり、「無分別の分別」に過ぎないということであります。

 まあ、現在、私たちが抱えている思惟分別による相対矛盾について、何という不毛なるくだらないことに、いつまでも悩み苦しみ続けているのかと、気づく上では大切な想像のギリギリの域ではないかとも思うわけであります。

 もちろん、このことで自暴自棄の悲観主義・虚無主義に陥ってもいけませんし、身の破滅へと繋がる快楽主義・享楽主義に陥ってしまってもいけません。「非有非無の中道」、「非苦非楽の中道」には、しっかりと気を付けておかなければならないと考えます。

 次に無分別の扱いについて、「知りえない、分かりえないもの」としてこれまでも述べて参りましたが、このことがつまり、空・仮・中の三諦の内の「仮」のことになります。

 三諦の色々な言い換えの言葉をカテゴリー別に分けた際に、「仮」については、「仮有、仮名、仮設、虚妄《こもう》、虚仮《こけ》、錯覚、幻《まぼろし》、幻覚、幻想、幻影、陽炎《かげろう》、逃げ水、蜃気楼、夢」としましたが、このことは、中論においても「観三相品」(第七・第三十五偈)『あたかも幻のように、あたかも夢のように、あたかも蜃気楼(ガンダルヴァ城)のように、生はそのようであり、住はそのようであり、滅はそのようである、と説明されている。』、「観顛倒品」(第二十三・第八偈)『いろかたち・音・味・触れられるもの・香り・「もの」は、たんにそれだけのものであり(固有の実体は無く)、蜃気楼(ガンダルヴァ城)のありかたをしており、陽炎や夢に似ている。』とあります。

 様々な教典の中にも「夢」や「幻」という表現は多く出て参りますが、日本でも古来より、この世のありよう、存在のありようについて、「夢」・「幻」と表現した偉人たちが数多くいました。代表的なものを挙げてみますと、

「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」・・豊臣秀吉辞世

「嬉しやと 再びさめて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空」・・徳川家康辞世

「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」・・幸若舞・『敦盛』一節・・織田信長

「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」・・上杉謙信辞世

「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来たれば 一元に帰す」・・明智光秀辞世

「夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」・・柴田勝家辞世

「さらぬだに 打ぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな」・・お市の方辞世

「何事も 夢まぼろしと 思い知る 身には憂いも 喜びもなし」・・足利義政

「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」・・いろは歌

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」・・平家物語・冒頭

 などと挙げましたように、やや感傷的な面が強くあるものの、この世の存在・事象は「仮のもの」として、実体のない、または実体の分からない、知りえないもの、つかみどころのないものとして、「仮」のカテゴリーにあるような言葉が比喩表現として用いられてきたのであります。

 このことで「而二不二」についても改めて考えてみますと、確かに「二なるもの、両部なるもの」は、分けえない、本来は一つなるものであるというのは、つまり、二なるもの、両部なる分別も、お互いにその本当の実体は分からない、知りえないものとして、それでお互いに「幻」・「蜃気楼」のようなものとして一つである、ということであります。

 思惟分別にて分けてしまったものは、このような意味で、実は差別《しゃべつ》のない、「平等」であるということを示していると考えます。私もあなたも、私もこの世における全ての存在・事象も、もちろんこのような次第においての「平等」なわけであります。

 この点で、世間における「平等」の意味とはやや違って、仏教における「平等」というものは、無分別において、お互いにその本当の実体は分からない、知りえないものということでの「平等」であるということを理解しておかなければならないのであります。

 さて、無分別が迷い苦しみを無くす上で、重要になるわけですが、前回施本と同様に、「無分別の分別」についても改めて考えたいと思います。

 このことは、第四章とも関連することですが、いわゆる世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦として、「無分別」・「無分別の分別」が世俗諦として、「無分別の分別」を超えて言語表現が不可能となった領域の理解が勝義諦ということであります。

 つまり、「無分別の分別」の無分別ということで、「非非無」となり、戯論(形而上学的議論)が滅されるわけであります。

 戯論(形而上学的議論)が滅されることについては、施本「佛の道」におきましては、お釈迦様の「無記の沈黙」、前回の施本では、維摩経《ゆいまぎょう》の不二法門における「維摩居士の一黙」について述べさせて頂きました。

 このことは、オーストリアの哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、ひとは沈黙に任せるほかない」という、彼の論著・「論理哲学論考」の終章にもあるように、形而上学的問題を扱う上における哲学・論理学の限界についても示されています。

 先に物理学・量子力学・数学・脳科学・認知科学において示させて頂きました限界も併せて、形而上学的領域の問題には、もはや何者も沈黙せざるを得なくなるということであります。

 ・・「・・この世におけることで分別は無い、できないということを「而二不二」と言うわけですが、唯識論では、「不即不離」「不一不異」と表されたり、般若心経では「不生不滅」・「不垢不浄」・「不増不減」と言う表現で出てきていますし、同様に「煩悩即菩提《ぼだい》」、「生死即涅槃」とも表現することもあります。・・これらの言葉で、分別の無いことを示しているつもりであっても、実はそれでさえも「無分別を分別」しているに過ぎず、本当のところはもう言葉では表現できないのであります。

 ですから「不○不×」や「○即×」という表現は、実はできない、表現していてもやむを得ずに、仕方なくそうしているだけであるというのが、正直なところであります。」・・ということであります。

 このことは、中論・「観涅槃品」(第二十五・第十九偈・第二十偈)『輪廻(生死の世界)には、ニルヴァーナと、どのような区別も存在しない。ニルヴァーナには、輪廻と、どのような区別も存在しない。』、『およそ、ニルヴァーナの究極であるものは、〔そのまま〕輪廻の究極でもある。両者には、どのようなきわめて微細な間隙も、存在しない。』とありますように、いわゆる「煩悩即菩提《ぼだい》」、「生死即涅槃」のことを直接に表している偈でありますが、生死(迷い・煩悩)にも、涅槃(菩提・悟り)のいずれにも最後はとらわれて、執着してはならないということであります。

 これは、言い換えると「悟り・涅槃を得たい、迷い・煩悩・苦しみから脱したいという、双方へのとらわれ、執着が無くなった」、「執着をしないということにさえも、執着しなくなった」ということではないかと思われます。「煩悩即菩提《ぼだい》」・「生死即涅槃」、「不○不×」や「○即×」の無分別は、非常に勝義諦(第一義諦)に近いところにあると言えるのではないかと考えます。

 以上、見て参りましたように、無分別についても世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦からしっかりと考えておかなければならないのであります。

・・第七章に続く。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
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一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月18日金曜日

施本「仏教・空の理解」・第五章・而二不二《ににふに》・再考察

施本「仏教・空の理解」
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五、而二不二《ににふに》・再考察

 さて、「而二不二」につきましては、前作の主要論題として扱いましたが、今回、「中論」からも改めて考えて参りたいと思います。

 「而二不二」とは、両部不二とも言われますが、「二つにして、二つではない(一つのもの)」という意味であり、普通に考えると矛盾していて理解し難い言葉になってしまいますが、いわゆる「無分別」を表すもので、両部は確かにあるが、どちらがどちらとは決められない、またはどちらが何かとは言えない、どちらにもとらわれて執着することができない、ということであります。

 このことは、前作で一枚の紙についての表裏におけることからの考察を行って、説明させて頂きました。

 一枚の紙について、・・「本当は表も裏もどちらがどちらとは言え無いのですが、「我・主体・主観」によって、こちらが表、こちらが裏というように、それぞれの我によって勝手な分別が生じてしまいます。

 もちろん、表と裏を我によって分別したのは、単に虚妄で、本当はどちらがどちらとは言え無い、やはりただの一枚の紙であって、「分別した二なるもの」は、「二つで無い」一枚の紙で、つまり「而二不二」なのであります。

 また、表、裏と分別したとしても、実はその中間についても、もちろん無視することはできません。例えば、皆さんの手元にあるその一枚の紙では、表でも裏でもない一ミリメートルにも満たない「厚さ」の部分があります。このように本当のところ、二項対立・二元対立は極端に分別することはできず、必ずその間もあるわけであります。白と黒では間に灰色があるように、パッといきなり対立が分かれてあるのではなくて、二項対立・二元対立は、実は対立関係にあるものではなく、ただ縁起空の連続について、ただ仮に「我」によって、そのようになってしまっているだけなのであります。

 つまり、ただ連続している縁起空があるだけなのに、ある一点に「我」と「執着」が生じてしまうと、そこを基準として囚われて虚妄分別が始まり、これが私、それがあなたに始まって、これが表、その逆が裏、これが楽、ではその逆が苦、これが正、その逆が邪というようになってしまうのであります。

 このように極端な側には立たずに、分別してしまったことでも、その中間に立ってみて、今一度、妄想・虚妄で分別したものが、実は一つのものであることに気付いていけるように調えていければ良いと考えます。そうすると、二項対立・二元対立は矛盾しているものではないと分かって苦しむことも無くなるでしょう。

 ただし、最終的には、その中間でさえも「空(縁起空)」ということで、中間ですらも無いのだということも理解できるようにしていかなければならないのであります。」・・

 と書かせて頂いておりますが、最後の部分で「中間ですらも無い」としてしまいましたのは、やや虚無主義的傾向が強い記述と感じられても仕方がない表現となってしまっているため、その部分を今回改めて本論の趣旨から訂正してみますと、『「厚さ」の部分は「表でも裏でもある、また、表でも裏でもない」という「表裏・非表非裏の中間」になるわけですが、もちろん、最終的には、その中間ですらも、知りえないし、分かりえないもので、そこにとらわれてしまうこと、執着することからも離れなければならないのであります。』とすれば、よりこの場合における空の理解が及ぶのではないかと考えております。

 さて、更に、私たちはなぜ思惟分別してしまえば、それが虚妄分別となり、必ず相対矛盾に陥って、迷い苦しむことになるのかについても、今回の「縁起」のあり方としての「相互依存的相関関係、相依性」から考えてみたいと思います。

 様々な二項対立・二元対立、例えば「表と裏」・「男と女」・「愛と憎」・「生と死」・「楽と苦」・「善と悪」・「平和と戦争」・「破壊と創造」・「○と不○(○には快・幸などの語が入る)」と、たくさん挙げることができますが、それぞれ、単独の世界があり得るのかと言えば、表だけの紙は成り立たず、裏があっての表であり、明も明だけの世界では、明が成り立たないわけであり、暗があってこそ、明は明として、その存在が認識・判断されるわけであります。

 同様に、男と女も、どちらか一方の単独の世界としてしまえば、当然に子どもができないため、その(人類の)存在は成り立たなくなってしまうわけであります。

 つまり、二項対立・二元対立、双方いずれも、その一方の単独する世界は成り立たないですし、一方を否定してしまっても同様なわけであります。

 このように互いに「相互依存的相関関係、相依性」の無分別・不二・平等でなければ、この世界は成り立っていないということであります。

 このため、二項対立・二元対立の両辺のいずれにも偏らずに、その相対を超克しなければならないというのが、この世で過ごす上では大切なことになるわけであります。

 このことを理解するためにも、その両辺を避けたところ、例えば一枚の紙では、「表でも裏でもあって、表でも裏でも無い」という厚さの部分、いわゆる「非有非無、非○非×の中道・空・縁起」を観ずることによって、その迷いから離れ、もちろん次には、その「中間」の部分であっても、最後にはとらわれて執着してはいけないということであり、このことがつまりは、二項対立・二元対立というものは、一体どこからが、その一方で、どこからが、もう一方なのかも分かりえない、知りえないものであるということであります。

 更に突き詰めると、分別、分けてしまうということは、実は最初からできないにも拘わらずに、生きていくための便宜上において、やむなしに分別しているものの、この「やむなし」ということが分からずに、迷い苦しんでいるわけであります。もちろん、その原因は、必ずどちらかへの執着によって生じてしまっているのであります。

 生きていくための便宜上ということについては、例えば、薬と毒があって、同じ瓶にそれぞれが別々に入っているとしまして、もしもラベルを貼っていなかった場合、当然に毒だと知らずに毒の方を飲んでしまえば、死んでしまうわけであります。

 もちろん、薬と毒は人間が間違って識別しないために、それぞれラベルで分けたのですが、ただ、その薬も毒も、それぞれの一方の側にとらわれて、執着はできないということであります。

 つまり、人間の都合において仮に分けただけのものであって、本当はそれが薬か毒かなどは、分けえないもので、当然に知りえないものですし、分かりえないものであります。

 例えば、薬の方にとらわれて執着してしまえば、薬だと安心して、いつの間にか大量に服用したり、副作用がきつい薬を、薬だ薬だと投与し続ければ、病気とは関係ないことで死んでしまうこともあるわけです。

 また、毒でも、薬となっているものもあれば、他の生き物たちにとっては、人間が毒としているものが食べ物になっていることもあるわけで、一概にどちらがどちらとも本当は言えないわけであります。

 とにかく一応は便宜上、人間の都合において分けたとしても、むしろ薬とも毒とも言えない、そういうものだとしっかりと認識しておくことで、より慎重に扱うことに繋がり、使い方、用法・用量も間違えなくなるのであります。

 このように無分別を弁《わきま》えておくことが、思惟分別・虚妄分別の世界で生きていく上では重要なことになるわけであります。

 また、二項対立・二元対立を分けてしまった時に、どのような問題が生じてしまうのかにつきましては、更に考えてみる必要があります。

 中論では、「観燃可品」の章において、このことが詳しく論じられていますが、簡単に要約してみますと、「燃えている薪」のありようにおいて、私たちは、どこからが火で、どこからが薪なのかは、はっきりと区別して知ること、分けることは誰にも不可能なことですが、私たちは、そのありようを見て、「火」があって、「薪」があると言います。

 では、「火」と「薪」を本当に分けてしまったらどうなるのかと言いますと、当然に火は火自体では存在できず、燃料がなければ「火」は消えてしまい、「火」は存在しえなくなります。また、薪も薪が燃料として存在するためには、火がなければならず、火と分けてしまうと、薪はただの木片になってしまいます。

 両者は一体として、そこに火があり、薪があると言えるわけであります。いわゆる「而二不二」のありようを呈しています。

 ここで更に両者を分けて一体のものと考えると、より複雑な関係性が浮かび上がることになります。

 両者の一方を肯定させていこうとすれば、そのまた一方は否定されることになるという関係性であります。例えば、火が炎として燃え盛っていく(火の肯定)ならば、薪は、徐々に小さくなり、燃料としての立場が弱くなっていく(薪の否定)こととなり、逆に火が炎を弱めていく(火の否定)と、薪は、燃料としての立場が強くなっていく(薪の肯定)ことになるという、相対矛盾のあり方を露呈してしまうのであります。

 更に、その両者の進行は、最後に皮肉な局面を迎えることとなります。

 火が炎として激しく薪を燃やし続けていけば(火の肯定の進行)、薪は徐々に小さくなって(薪の否定の進行)、やがて薪が燃え尽きてしまった時(薪の完全否定)、そこには火の存在できる場所が無くなり、火も消え去って、火は完全に否定されることとなってしまいます。

 同様に、火の炎の勢いが弱まっていけば(火の否定の進行)、薪は徐々にその燃料としての立場が強まり(薪の肯定の進行)ますが、やがて火が消えてしまった時(火の完全否定)、そこには薪の燃料としての立場も無くなり、薪は木片となってしまって、完全に薪、燃料としてのありようは否定されることになってしまいます。

 このように相対する両者の関係は、分けて考えてしまう限りにおいて、対立を残していないと、結果的に両者ともに完全に相互否定に繋がってしまうという、対立矛盾の迷い・苦しみを如実に表すことになるのであります。

 このことからも、二項対立・二元対立の分別においては、いずれの側にも立つことができない、どちらも肯定、否定共にとらわれて執着してはいけない、ということなのであります。

 以上のことからも、「中論」の説く「相互依存的相関関係、相依性の縁起」のあり方は、実に難解なる複雑な関係性も含んでいることも、しっかりと無分別の立場から理解しなければならないのであります。

 このことをより分かりやすく、少し話を飛躍させて「明」と「暗」との関係について、私なりに述べてみますが、「明」は「明」の世界だけでは、当然に私たちは「明」について、それが「明」とは知りえないわけであり、「暗」があってこそ、「明」であると知ることができます。もちろん、「明」だけの世界は無く、「暗」だけの世界もありえません。互いは「而二不二」の関係にあります。

 もしも、より私たちが「明」を知ろうと思って、「暗」の部分を増やしていけば、私たちは、より「明」を知ることができるようになります。

 このようにして「明」のまわりのほとんどを「暗」としていけば、私たちはより一層にきわだって「明」であると、その存在を知ることができます。もちろん、この場合、「明」の存在する場所は徐々に少なくなってしまっていきます。

 そして、きわだたせていくことを最後まで進めると、どうなるのかといいますと、結局、「明」が全て「暗」となってしまって、「明」は完全に無くなってしまいます。もちろん、「明」が無くなれば、「暗」も存在できずに、両者共に完全否定されてしまうに至るということになります。

 もちろん、同様に「暗」の肯定進行においても、最後は両者共に完全否定に繋がってしまうのであります。

 このように、物事を分別させて考えると、必ず相対矛盾に陥って悩み苦しむこととなってしまうため、相対矛盾を避けるためにも、仏教においては、無分別の重要性が説かれるわけであります。

 とにかく、中論においては、徹底して自性が否定され、無自性なる縁起のありようを「空」とし、中論・「観四諦品」(第二十四・第十四偈)『およそ、空であることが妥当するものには、一切が妥当する。およそ、空〔であること〕が妥当しないものには、一切が妥当しない。』と述べて、一切の成立をあるがままに観れるように、「空」・「縁起」の理解を調えていかなければならないとしているのであります。

・・第六章に続く。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月17日木曜日

施本「仏教・空の理解」・第四章・世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について

施本「仏教・空の理解」
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四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について

 次に、世俗諦《せぞくたい》・勝義諦《しょうぎたい》(第一義諦)の二諦について考えて参りたいと思います。

 まずこのことについて、お釈迦様が悟りを開かれた時の出来事から述べてみようと思います。

 悟りを開かれたお釈迦様は、独覚したその悟りについて、涅槃の境地を静かに喜び、このまま更に深い禅定に入って、もはや再び生まれ現れることのないように、この迷い・苦しみの世界から完全に解脱しようと考えられたと伝えられています。

 また、この涅槃へと至る道について、例え説いたとしても、誰にも理解してもらえないのではないかとも考えられて、教えを説くことを躊躇したと言われています。

 このことは、つまり一切知見者たるお釈迦様は、あらゆる全てを見通す智慧をお持ちになったため、未来の一切についても予見された上で、人間が人間である以上、思惟分別の迷い・苦しみから逃れることは到底不可能であるとも考えられたかもしれません。

 それは、現在の人類社会における、戦争・紛争・テロ・犯罪などの争い事、地球環境破壊・資源問題、地球温暖化問題、生命倫理問題など、様々な相対矛盾の問題に悩み苦しんでいるありようを考えた時、ある程度うなずけることではないだろうかとも思えます。

 しかし、このようにお釈迦様が教えを説かれることを躊躇していた時、梵天《ぼんてん》(ブラフマー・帝釈天《たいしゃくてん》と同等の仏教護法善神)が現れ、「そのすばらしい涅槃へと至る道を衆生にも大いに説き、迷い・苦しみから衆生を救済して下さい」と、梵天から三度も勧められたと伝えられています。このことは「梵天勧請《ぼんてんかんじょう》」と言われています。

 梵天からの勧めを受けて、いよいよお釈迦様は、涅槃へと至る道を衆生に説くことを決意されます。とにかく自らが説くことで、涅槃へと至れる衆生が、少しでも多く増えてくれれば幸いであると考えられたのではないだろうかと思われます。

 お釈迦様は、まず、かつての修行仲間だった五人の僧たちに、「四諦・八正道」の教えを説かれました。その者たちは、お釈迦様について、苦行を止めてしまった者として厳しく批判していましたが、いつしかその真理に触れた五人の僧たちは、お釈迦様への軽蔑の心が既に無くなり、その説法を聞く内に次々に悟りを開いていきました。このことを「初転法輪《しょてんぽうりん》」と言い、いよいよ仏教が始まった瞬間でもありました。

 このエピソードを鑑みるに、仏教の真理の理解は実に難解であり、お釈迦様は当初、世俗の中において到底説くことができないと考えられたのではないかと思われます。

 つまり、仏教の真理は思惟分別を超えたものとして、本当は言葉・言語では表すことができないが、説くためには、世俗における思惟分別をもって説かざるを得ないため、それでは到底理解できないかもしれないと、お釈迦様は危惧されたのではないかと思われます。

 それでも何とかお説きになられた時には、無分別の立場から、やむをえないものの、世間の分別の立場へと後退させて、その真理をギリギリ限界まで言葉などの表現にてお説きになられたということであると考えられます。

 このことは、中論における「観四諦品」(第二十四・第八偈~第十偈)『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』、『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』、『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』とありますように、仏教の真理を説くのであれば、まずは世俗の言葉などの表現手法を用いて説くしかなく、ある程度、世俗の思惟分別・言葉・言語にも頼らざるをえないということであります。

 そのため、八正道における「正しい」の内容も、無分別なる仏教の真理から最大限勘案された上で、分別としての「正しい」道をできる限り明らかにされたものだと理解しておけばよいのではないかと思います。

 ゆえに、真理から派生されたものとして、その学び・理解・実践を私たちは誤りなきように行っていかなければならないのであります。

 さて、次に「世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦」の具体的内容、その差異について考えなければなりません。つまり、何が「世俗諦」で、何が「勝義諦」かということであります。

 中論においては、何をもっとも根本なものとして説かれているのかと言いますと、もしかすると「空」と思われるかもしれませんが、その前提となる「縁起」が、実はもっとも重要であると考えられています。この「縁起」につきまして、この場合の二諦を考えてみましょう。

 全てのものは、そのものの固定した実体があるわけではなく(諸法無我)、また、無いわけでもないが、そのありようは、そのもの自体では、生じることも、滅することもない、また常住でもなく、断滅でもなく、移ろい変わりゆくものである(諸行無常)ということについて、「縁起」をもって、その無自性、空性を中論は示したわけであります。

 世俗諦における「縁起」の解釈としましては、いわゆる施本前二作で私が縁起の解釈として使わせて頂いておりましたもので、「佛の道」・第八章・因縁生起においては、「この世における一切の現象・存在は、全て因(直接原因)と縁(間接原因・条件)の二つの原因が、それぞれ関わり合って構成されているということ」と述べさせて頂きましたように、この縁起のありようについて、全ての存在は、因縁によって生起するものとして、普通に自然的存在においてのあり方における時間的・空間的に生起する因果関係におけるものとして、実は世俗諦における「縁起」の扱いでしかありませんでした。

 また、前作における唯識論においても、三性の一つ「依他起性《えたきしょう》」について、「この世のすべての存在が、他の何かを縁(因縁生起)として、はじめて成立しているということ」と述べさせて頂きましたが、この依他起性も、世俗諦の「縁起」とほぼ同様として扱いました。

 一方で、中論が説く「縁起」というものは、勝義諦としてのものと扱われ、それは、今回の施本で取り上げさせて頂きましたように、存在のありようについて、「相互依存的相関関係、相依性《そうえしょう》」で成り立っているものとして、そのありようについては、「非有非無なるもの、不生不滅なるもの、不常不断なるもの、不一不異なるもの、不来不去なるもの」として、非常に言語表現を超えるものに近い扱いで表されていると考えます。

 私自身、中論の理解を進める前に、これらの「有るということもなければ、無いということもない」、「生じるということもなければ、滅するということもない」というような仏典中における表現に触れることはあったものの、正直、真意は何を述べたいのか容易には理解しがたいものでありました。

 浅学非才、未熟者の身ながら、仏教を学ぶ者であっても、そのような感じでありましたので、なおさらにも普通の世間においての思考、思慮、思惟において理解するのは、難解さを極めるようにも思われます。それがゆえに、勝義諦とされるわけでもあります。

 次の中論の最初の二偈である「帰敬偈」が、まさに縁起の勝義諦としてのありようを示しています。

 「観因縁品」(第一・第一偈、第二偈)『〔何ものも〕滅することなく(不滅)、〔何ものも〕生ずることなく(不生)、〔何ものも〕断滅ではなく(不断)、〔何ものも〕常住ではなく(不常)、〔何ものも〕同一であることなく(不一義)、〔何ものも〕異なっていることなく(不異義)、〔何ものも〕来ることなく(不来)、〔何ものも〕去ることのない(不去)〔ような〕、』、『〔また〕戯論(想定された論議)が寂滅しており、吉祥である(めでたい)、そのような縁起を説示された、正しく覚った者(ブッダ)に、もろもろの説法者のなかで最もすぐれた人として、私は敬礼する。』

 とありますように、言葉の表現による戯論《けろん》(形而上学的議論)が滅された、そのすばらしい「縁起」を説かれたお釈迦様を尊敬して讃えた偈となっております。

 さて、形而上学的議論について、ここで思い出される方がいらっしゃるかもしれませんが、施本「佛の道」・第十八章・「無記」がありました。

 ・・「お釈迦様は、弟子たちから色々と出される質問の中で、特に形而上学的な問題については判断を示さず、答えを出さずに沈黙を守ることで、仏教の実践から外れてしまう無用な論争の弊害を避けられることがありました。」・・として、「十無記」・「毒矢の例え」についてご紹介させて頂きました。

 また、前回施本におけます「唯識論」におきましても、末那識《まなしき》・阿頼耶識《あらやしき》における「非善非悪」についての「無記」を扱いました。

 「十無記」も「非善非悪の無記」も、いわゆる二元論・四元論を超えたものとして、「そう」、「そうでない」の二元論でも、また「そうでもあって、そうでもない」、「そうでもなく、そうでもないものでもない」を加えた四元論でも答えることが不可能ということで、つまり、戯論を無くしたところと両者解すことができます。

 いわゆる今回取り上げております中論の「八不」と「無記」とは、同義のものと考えることができると思います。

 ただ、「非善非悪の無記」については、より正確に述べるとするならば、「非善非悪、非非善非非悪の無記」とする方が良いようにも思います。また、同様に「非有非無の中道」についても、「非有非無、非非有非非無」として、このことを考えますと、「無記」と同義として解しても差し支えないようにも思えます。

 また、「非有非無」は中道として、「非非有非非無」は空として表したとすれば、実は、前作の第五章・「一枚の紙から・②而二不二《ににふに》」の論考において、紙の厚さの部分のことも「縁起空」であるとして、最後に扱いましたが、そのことが「非非有非非無の空」として解すれば、よりその理解が及ぶものではないだろうかと考えております。

 もちろん、このことは、空・仮・中の同義からやや離れて、空をより高次の扱いに上げてしまうため、少し問題があるようにも思います。また、「非非有非非無」を不空としてしまっても、空・不空と分別したものとなってしまうため、これもやや問題が生じてしまいます。

 このことは、中論・「観行品」(第十三・第八偈)『もしも非空である何ものかが存在するとするならば、空である何ものか〔が存在することになるであろう〕。〔しかし〕非空である何ものも存在しない。どうして、空であるものが存在するであろうか。』、中論・「観如来品」(第二十二・第十一偈)『「空である」と語られるべきではない。〔そうでなければ〕、「不空である」、「両者(空且つ不空)である」、また「両者(空且つ不空)ではない」ということになるであろう。しかし、〔これらは〕想定(仮に説く)のために説かれるにすぎない。』とありますように、「空」と「非空(不空)」を分別し相対してしまうことも、中論では最終的に退けているのであります。

 同様に、中論・「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』、中論・「観法品」(第十八・第八偈)『一切は真実(そのようにある)である」、「一切は真実ではない」、「一切は真実であって且つ真実ではない」、「一切は真実であるのではなく且つ真実ではないのでもない」。これが、もろもろの仏の教説である。』、とあるように、「有、無、非有、非無、非非有、非非無」として、そこで戯論が完全に滅されることになるわけであります。

 さて、このように「八不」、「無記」によって、戯論(形而上学的議論)を滅したところの「縁起」を中論では、勝義諦(第一義諦)として示したのであります。

 また、空・仮・中の三諦によって先にカテゴリー別に分けさせて頂きました様々な比喩表現も、自然的存在における因果関係のあり方における「縁起」と同様に、世俗諦として示しているものとしても良いのではないかとも思います。ただ、既に形而上学的議論に近くなるところのギリギリ限界での比喩表現であるため、普通で考えると矛盾しているように思われたりするものも中にはあるため、やはり理解することは難しいと言えるかもしれません。

 以上から、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦を理解した上で、中論・「観四諦品」(第二十四・第四十偈)『およそ、この縁起を見るものは、その人こそ、実に苦・集・滅・道(四聖諦)を見る。』として、真なる「四諦・八正道」の実践が、ここでようやく可能になるということであります。

 そして、中論・「観行品」(第十三・第八偈)『空であること(空性)とはすべての見解の超越であると、もろもろの勝者(仏)によって説かれた。しかるに、およそ、空性という見解をいだく人々〔がおり〕、かれらは癒し難い人々であると、〔もろもろの勝者は〕語った。』とありますように、「空性」についても、最後はとらわれて執着することなく、中論・「観四諦品」(第二十四・第十四偈)『およそ、空であることが妥当するものには、一切が妥当する。およそ、空〔であること〕が妥当しないものには、一切が妥当しない。』とありますように、「空」を正しく観ずることが大切になるのであります。

・・第五章に続く。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
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一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月16日水曜日

施本「仏教・空の理解」・第三章・空論・空仮中の三諦について

施本「仏教・空の理解」
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三、空論・空仮中の三諦について

 さて、いよいよ本論の具体的内容に入りますが、まずは、「中論」の示す「空仮《け》中の三諦」の「空」についてであります。

 原始仏典の一つ「ウダーナヴァルガ」にも、『「一切の形成されたものは空である」と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。』〔ブッダの真理のことば・感興のことば 中村元訳 岩波文庫〕とありますように、このことは、「一切皆空」・「諸法皆空」として表されます。また、同じく原始仏典の一つ「スッタニパータ」にも「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。・・」〔ブッダのことば スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫〕とあります。

 この「空」の解釈につきましては、仏教史上においても様々に見解が分かれることがあり、空の解釈を虚無主義として捉えてしまったり、空の考察については、その難解さゆえに誤解が生じることもあって、退けられることも多々ありました。

 「空」につきましては、施本「佛の道」においては、あえて大きくは取り上げず、二ページ足らずにて触れた程度でありました。

 ・・「特に空論を教学的に体系化した龍樹《りゅうじゅ》が確立したのは、「縁起空」と呼ばれ、現象・存在は全て縁起(因縁)によって仮に設けられたものが空であるとして、二元論的に現象・存在に有があるということを前提として、その有に対しての否定における空を意味するものではなく、この場合の「空」は、本来的に否定を受ける有すらないという意味での空というものであります。

 また、縁起そのものが空であり、現象・存在において他に空でないものはなく、他に縁起でないものもないという意味での空でもあります。

 この縁起空は、諸法無我だけでなく、中道を示すものの補完でもあると考えられます。

 何ら偏りの無い、何ら差別の無い、何ら囚われの無い立場で、ただ縁起をあるがままに受け入れて認めて、そこには苦も無く、楽も無く、非苦非楽も無い、上も下も、右も左もその中間も無い、当然に我もなく、執着できるものも無く、所有できるものも無く、意味や価値などももちろん無いのであります。

 縁起空は、無自性が空であるとして、始めから我は無く、始めから執着をするものは無く、始めから何も捨てるものすら無く、始めから何も価値が無いという、完全な無我、無執着・無所有・無価値などの理解によって、煩悩・苦しみを滅するために説かれたと解するのが妥当ではないだろうかと考えています。」・・

 これを振り返りますと、やや虚無主義的傾向が強いと解釈されてもある程度仕方がない内容となってしまっているように思います。今回の施本では、この「空」につきまして改めまして考察を深めて参りましょう。

 さて、空の理論につきまして、教学的に体系化したのが、龍樹《りゅうじゅ》(ナーガールジュナ)であります。

 龍樹は、初期大乗仏教の確立に多大な影響を与えたインドの僧侶であります。特に八宗(大乗仏教の宗旨・宗派の総称)の祖として、「龍樹菩薩」と呼称されてもいます。

 主な著作「中論」において、「空仮《け》中の三諦」を示し、龍樹の空論は、その後のインド大乗仏教の二大潮流の一つ、中観《ちゅうがん》派を支える根本理論となりました。余談ながら、そのインド大乗仏教二大潮流のうちのもう一つが、前作の施本におきましてご紹介させて頂きました「唯識論」を扱う「唯識派」(瑜伽行唯識学派《ゆがぎょうゆいしきがくは》)であります。

 さて、「中論」におきましては、「空仮中の三諦」が説かれるわけでありますが、まずその三諦を示した偈が、「観四諦品」(第二十四・第十八偈)『およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすなわち、中道そのものである。』であります。

 実は、古来より、この偈の解釈の難解さが、空の理解の難解さともなっている要因だと言われています。

 つまり、「空」・「仮名《けみょう》」・「中道」がそれぞれ異なった諦(真理)であるのか、それとも同義のものであるのかという論争であり、また、お釈迦様が「四諦・八正道」においてお説きになった中道について、「非有非空の中道」と「非有非無の中道」のどちらか、というものであります。

 三諦を、それぞれ異なった真理とする解釈では、空も仮名に過ぎず、空を何か実体的に捉えてしまうことも避けて、空を空じて、そのことを中道と解したわけであります。つまり、この世の存在については、「仮名」がゆえに「有る」とは言えない「空」なるものであり、「非有」として、そして、その空についても「空」なるものとして「非空」とし、そのことが中道であるとしたわけであります。

 この中道についての「空」の二重否定が、ややもすると虚無主義的に扱うことに繋がってしまったとも言えるわけであります。

 前回施本の唯識論・三性の論考における「依他起性」の私の解説の中で、後に削除訂正させて頂くこととなりましたが、「無存在」という言葉が出てきてしまったのも、やや虚無主義的傾向が、どこか自身にもあったようであり、誠に反省致しております。

 また、その後の内容においても文中に出て参ります「無い」という表現につきましても、虚無主義的傾向が少し出てしまっていたようにも思います。

 このことがあって、中論の学びを改めて進める機会を得たわけでありまして、今回の施本を執筆させて頂きました次第でもあります。

 このことは、「縁起」についての理解も改めて行うことにもなりました。具体的には後の内容をご参考頂ければと思います。

 また、既に気づかれたかもしれませんが、今回の「諸法無我」の説明におきましては、「この世のあらゆる全ての存在には、固定した実体としての我(自性)が無く、その存在のあり方は、絶えず他との因縁生起(縁起)によって成り立っており、相互依存的相関関係、相依性《そうえしょう》であり、固定した実体は知りえないし、分かりえないものである」として、特に「固定した実体は知りえないし、分かりえないものである」と「有る」とも言えないし、「無い」とも言えないものとして、今回は虚無主義と解されるかもしれない危惧を避けさせて頂いております。

 このように、自身、前作において、「非有」としては、それなりに説明できていたものの、やや「非無」の方の扱いでは、虚無主義的なニュアンスに傾向していた違和感が残っていたということと、また、中道につきましても、施本「佛の道」における八正道・中道の解説におきまして、・・「上から見ても下から見ても、右から見ても左から見ても、中間から見ても、過去から見ても現在から見ても未来から見ても、どのようないかなる現象・存在から見ても、三界における全てから見ても、何ら偏りの無い、何ら差別《しゃべつ》の無い、何ら囚《とら》われの無い立場から認識・判断したものを、ようやくに「正しい」としなければならないのであります。このような立場のことを「中道《ちゅうどう》」と言います。」・・と述べさせて頂きましたが、今から振り返りますと、やや中途半端な観が否めない考察に終始してしまったことからも、その修正が、今回必要になった次第であります。

 改めて、中論についてじっくりと考察を行いました結果、縁起の相互依存的相関関係、相依性《そうえしょう》を出発点として、その縁起の説明として、同義に「空」・「仮」・「中」が表されたと解した方がよりすっきりと理解が及んできたわけであります。

 また、このことは龍樹の他の著書とされている「廻諍論《えじようろん》」の中において、「空」と「縁起」と「中道」が同義であるという記述からも、ほぼ間違いないのではないかと解せます。

 さて、一切皆苦の説明において補足させて頂きましたように、思惟分別における相対矛盾に苦しむことを避けるためにも、二項対立・二元対立のいずれの側にも立たず、「有る」ということと、「無い」ということの、その両極端を避けることが重要なことになります。

 これらのことから、三諦の「空」・「仮」・「中」は同義として、「非有非無の中道」を表したものであると考えて、ほぼ妥当ではないかと思います。

 このことは、中論における「観有無品」(第十五・第七偈~第十一偈)『「カーティヤーヤナへの教え」において、「存在(もの・こと)」と「非存在(のもの・こと)」とを正しく知っている世尊によって、「有る」と「無い」という二つは、ともに否定された。』、『もしも〔或るものの〕有ということが本性としてあるとするならば、そのものには、無ということは、あり得ないであろう。なぜならば、本性〔そのもの〕が変異するということは、決して成り立たないのであるから。』、『もしも本性が現に無いとするならば、変異することは、何において、存在するであろうか。もしも本性が現に有るとするならば、変異することは、何において、存在するであろうか。』、『「有る」というのは、常住に執着する〔偏見〕である。「無い」というのは、断滅〔に執着する〕偏見である。それゆえ、聡明な人は、「有る」ということと「無い」ということとに、依拠してはならない。』、『なぜならば、およそ自性をもって存在するものが、「存在しないのではない」というならば、常住〔への偏見〕が、〔そして〕「以前には存在していたが、いまは存在しない」というならば、断滅〔への偏見〕が、誤りとして付随するからである。』と、これらにおける偈からも明らかであると考えます。

 以上から、お釈迦様の説かれた「縁起」というものについて、空の理論として龍樹によって補完され、それらから同義として派生している関連の比喩言語も、その一つとして解しても構わないのではないだろうかと思います。

 つまり、仏教の解説用語として様々に使われることがある比喩言語の中で、僭越ながらも私なりにカテゴリー別に分けてみますが、空のカテゴリーとして「無我、無自性、虚空、無自性空、縁起空」、仮のカテゴリーとしての「仮有、仮名、仮設、虚妄《こもう》、虚仮《こけ》、錯覚、幻《まぼろし》、幻覚、幻想、幻影、陽炎《かげろう》、逃げ水、蜃気楼、夢」、中のカテゴリーとしての「中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、平等、煩悩即菩提、生死即涅槃」などの言語も、同義の言い換えであると解釈してもあながち間違いではないように思う次第でもあります。もちろんこのことは、更なる慎重な考察が必要であると考えております。

 そして、思惟分別における様々な二辺の両極端を離れて、そのどちらにもとらわれない、執着しない実践が、悩み苦しみを無くして、涅槃へと至る中道であるとして、その中道の実践をお釈迦様は「四諦・八正道」として説かれたのであります。

 ただ、読者の皆様の中には、この「四諦・八正道」における「八つの正しい道」、つまり「正しい」ということについて、「正・誤」・「正・邪」の分別に係わってしまうために、仏教の無分別的な視点からは、「正しい」ということへのとらわれ、偏見ではないのか、という疑問が多少生じてしまうかもしれません。このことにつきまして、次の章において詳しく扱いたいと思います。

・・第四章に続く。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
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一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月15日火曜日

施本「仏教・空の理解」・第二章・仏教の基本法理・四法印の理解

施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm



二、仏教の基本法理・四法印の理解

 まずは、仏教の基本法理について改めて考えて参りましょう。四法印と呼称される「諸行無常《しょぎょうむじょう》」・「諸法無我《しょほうむが》」・「一切皆苦《いっさいかいく》」・「涅槃寂静《ねはんじゃくじょう》」でございます。

 「諸行無常」とは、「この世のあらゆる全ての現象・存在は、移ろい変わりゆくもので、因縁生起(縁起)によって生滅変化を繰り返している、常ならずにある」ということであり、この世における現象・存在には、常住なるもの、永遠不変なるもの、永遠不滅なるものは、一切何もないということであります。

 次に「諸法無我」とは、諸行無常の法理を受けて、「この世のあらゆる全ての存在には、固定した実体としての我(自性)が無く、その存在のあり方は、絶えず他との因縁生起(縁起)によって成り立っており、「相互依存的相関関係、相依性《そうえしょう》」のありようで、固定した実体については、知りえないし、分かりえないものである」ということであります。

 もちろん、それがゆえに、この世の存在については、言葉では表すことができず、様々に私たちが存在に対して名付けている名称も、あくまでも「仮のもの」に過ぎないもので、本当のところ、そのものについては「ある」とは言えないものなのです。このことを「仮名《けみょう》」・「仮有《けう》」と言います。

 ここで「仮のもの」ということについて、詳しく述べてみましょう。「仮名《けみょう》」・「仮有《けう》」とは、私たちは、存在や事物について、一応は仮に名前をつけているものの、その本当のところは知りえないし、分かりえないものであるということです。

 このことについて、まずは物質について考えてみますと、物質は、分子・原子・電子・陽子・中性子・素粒子、更には宇宙空間の約八十五パーセントを占めていると言われている暗黒物質(ダークマター、ダークエネルギー)などがあり、この世界・宇宙は、それらによって構成されているとされますが、その真なる解明については、今のところ可能性としての解釈に終始しており、物理学・量子力学における「不確定性原理」が示したように、「物質の存在(位置と運動量〔質量×速度〕・時間とエネルギーを同時に正確に知ること)は原理的に証明・検証することができない」ということが明らかとなってしまっています。

 また、同じように数学基礎論における「不完全性定理」では、数学には、「証明する事もできないし、否定を証明する事もできない命題(いわゆる、パラドックス)が必ず存在し、正しいのに証明できない事が存在していること」、また、「矛盾しない事を数学自身が証明する事ができないこと」も明らかになり、数学についても、その限界が示されたように、この世界・宇宙の全てのことの解明、物質の本当のありようを私たちは知りえること、分かりえることが全くできていないのが現状であります。

 また、私たち人間存在につきましては、施本「佛の道」におきまして、五蘊仮和合《ごうんけわごう》のものとして説明させて頂きました。・・「五蘊とは、色《しき》・受・想・行・識で、それぞれ、色(物質・肉体)、受(感覚・感受、六感〔眼・耳・鼻・舌・身・意〕、五蘊の場合では「意」は含まない場合もある)、想(表象・概念)、行(意志)、識(意識・認識)で、その五蘊が無常なる中、因縁によって仮に集合しているものが、私たち人間の存在であり、その五蘊も当然に移ろい変化する中にあって、決して永遠不変・常住なるものではなく、五蘊にも固定した実体たる「我」はないため、五蘊それぞれも「自分のもの」ではなく、もちろん何もつかめないし、執着できるものではありません。」・・として、その例についても簡単に挙げさせて頂きました。

 この六感〔眼・耳・鼻・舌・身・意〕の感覚について、今回少し補完させて頂きますと、感覚というものも、その対象の存在については、「クオリア(現象的意識・質感・感覚質)」で把握しているものとして、いわゆる主観的な「イメージや感じ」でしか把握できていないということであり、また、この「クオリア」というものが、一体何であり、どのように生じているのか、物質との関連はどうであるのか、物理学上の位置づけはどうなるのか、その主観性とは何であるのか、一体どこに生じるのかなどは、脳科学・認知科学、物理学でも解明することができないかもしれないとされる難問中の難問であり、つまりこのことは、本当の「我・主体・主観」というもの、対象のそのものの「我」も、知りえないし、分かりえない、そのようなものであるという仏教の「諸法無我」のことを示しているのであります。

 以上のように、形而上学的と言えるような問題に近いことについては、私たちの思考・思慮・思惟、言語表現を伴う学問の限界があることについて考えてみました。

 もちろん、物質、クオリアなどの更なる解明、新たな発見があれば、前述のことについての修正が余儀なくされることになりますが、現在のところ、残念ながらもほとんどその解明はありえないことではないかと思われます。

 驚くのに、お釈迦様は、二千六百年あまり前に、既にこのことを悟られていたようであるということであります。

 話を少し戻して、更に、私たちは常に対象のものについて、同じようにそれらを感受しているように錯覚してしまっていますが、例えば眼で見ている対象のものも、本当は生まれてから死ぬまで、同じものを同じように私たちは見ることができないのであります。

 なぜならば、その対象のものについて、分かろうが、分かるまいが、当然に刹那で変化しているものであり、尚かつ、感受する側の神経、眼であれば視神経、そして、電気信号を脳に伝達する神経細胞(ニューロン)・シナプスでさえも、刹那に活動しており、エネルギーを消費し、老化、新陳代謝・生滅変化を繰り返しているため、厳密に言うと、見ているものも、同じ視神経・神経細胞・シナプスで把握しているわけではないのであります。

 このように、感受される対象の側も、眼・耳・鼻・舌・身において感受した側も、双方が刹那に変化し続けているため、私たちは同じものを見続けている、感受し続けていると考えることは、実はできないのであります。つまりそれは、刹那毎に全く違ったものを見ている、感受していると言っても過言ではないのであります。

 いずれにおいても、己も他も、その固定した実体については、知りえないし、分かりえないものでしかないのであります。

 ここで更に追記としまして、「時空論」についても扱いたいと思うのですが、このことについては、是非、「C点の時空論」〔URL:http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/ 〕の全文をご参照賜りましたらと考えております。今回はその内容につきまして、簡単に少しだけ引用させて頂きます。

 「・・空間は物質Aを考えることにより、2つに分割される。すなわち、物質Aと物質Aに非らざる空間非Aである。・・」

 「・・Aと非Aとを分けるものは存在しなければならない。Aと非Aとを分けるものがないとすると、Aと非Aとは混合してしまう。ここではAと非Aとを分割するものは存在するのである。・・」

 「・・それをB面と名づける。B面はAであり、同時に非Aである。Aと非AはこのB面により分割される。このB面は純粋な平面であり厚さは無い。B面は表面であると同時に裏面である。この矛盾したB面を認めざるを得ない。それなしには、空間は成立しないのである。・・」

 「・・素粒子をと言うか、物質A、B面を無限に分割してゆき、最終的には空間に位置のみ有するところの有と無との両方の性質を持った点にまで分割してゆきます。この有と無を両方の性質を持った点をC点と言い、これが矛盾そのものですが、総ての出発点です。・・」

 「・・宇宙はC点の集合である。C点は空間に一様に分布しているのではなく、あるところは密に、あるところは粗に変化に富んだ分布をしている。
 C点は又、エネルギーを持っている。そしてC点自身は体積を持たない点であるため、膨大な密度の、例えばこの宇宙全体の存在するC点総てであっても、そこに閉じ込めてしまうような超高密度のC点の集合も可能と思われるのである。・・」

 「・・C点は有と無と両方の性質を持つ・・」

 「・・時空の本質は矛盾であり、無限であるが、現象は流動して有限であるが矛盾はない。・・」・・引用ここまで。

 と、「時空」・「物質」における、言語表現を超えたところのありようについて、実に難解な考察内容となっていますが、この後の中論の考察、「非有非無の中道」、「非非有非非無としての戯論《けろん》の寂滅」、「不二、平等のありよう」についても通じるところがあるため、今回、取り上げさせて頂きました次第でございます。是非、本論を読まれました後にでも、この「C点の時空論」について、再び振り返って考えて頂ければとも思います。

 さて、現実の私たちは、あたかも存在について「有る」ものとして錯覚して、そこにとらわれてしまって、妄執・我執・愛執などの執着を抱えてしまい、悩み苦しむことになってしまっています。

 このことを仏教では「一切皆苦」と表します。一切皆苦の具体的内容につきましては、「四苦八苦」としてまとめられています。四苦八苦につきましては、施本「佛の道」にて詳しく取り上げておりますので、ご参照下さいませ。

 また、今回は、この一切皆苦につきましても、もう少し補足しておきたいと思います。

 私たちは常に物事・存在・現象に対して、分別して判断・認識しています。端的に述べますと主体と客体との分裂によって生じていることであります。このあたりのことは、前回の施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」でも詳しく取り上げました。

 もちろん諸法無我なる中においては、固定した実体としての「我」は無いため、当然に主体は成り立たず、そうなると客体も成り立たない、主客は、分けえないものとして不二であり、それぞれは、「知りえない、分かりえないもの」としての扱いにて「平等」となりますが、しかし、私たちはそのことを理解できずに、どうしても分別して物事・存在・現象を判断・認識してしまいますし、私たちが生きていく上においても当然にやむを得ないことでもあります。

 そのために、諸法無我であることによく気を付けていないと、思惟《しい》分別したことによって、必ず二項対立・二元対立の迷妄に陥り、そのどちらか一方にとらわれて、相反・相対矛盾に悩み苦しむこととなってしまいます。

 例えば、二項対立・二元対立は、「自と他」に始まって、「表と裏」・「有と無」・「明と暗」・「左と右」・「上と下」・「優と劣」・「男と女」・「勝と負」・「成功と失敗」・「理性と感情」・「愛と憎」・「生と死」・「楽と苦」・「正と邪」・「善と悪」・「平和と戦争」・「破壊と創造」・「○と不○(○ には快・幸などの語が入る)」と色々と挙げられます。

 ここでは特に代表して「有・無」について述べますと、この世における存在は、これまでにも述べて参りましたように、諸法無我であり、知りえないし、分かりえないものであって、「有る」ものとも言えないし、また「無い」ものとも言えないにも拘わらず、そのどちらかにとらわれて、執着してしまい、私たちは苦しんでしまうということであります。

 重要なことは、二項対立・二元対立は、それぞれ、本当はそのどちらの側とも言えない、分かりえないものであるということであります。つまりどちらの側にも立つことができないのであって、更には元々分けることができない、分けえない、そういうものということであります。

 ですから、私たちが思考・思慮・思惟《しい》して、この世におけることを分別して相対判断・認識している以上は、必ず相対矛盾が生じてしまい、迷い苦しむことになります。

 ゆえに、私たちが生きていく上で、思考・思慮・思惟して判断・認識することを止めれない、止めない以上は、皮肉にも必然的に「一切皆苦」になってしまうというわけなのであります。

 最後に「涅槃寂静」とは、先の三法印と四諦(苦諦・集《じっ》諦・滅諦・道諦)の理解、八正道の実践により、煩悩を滅して、完全に迷い・苦しみが無くなり、静かで安らかなる清浄な心を保つことができるようになった状態のことであります。「四諦・八正道」の具体的内容につきましては、施本「佛の道」をご参照下さいませ。

 仏教の目標は、この涅槃寂静であります。確かなる涅槃へ向けて、それぞれ各々がしっかりと仏教の真理を学び、実践に精進努力を進めて参りましょう。

・・第三章に続く。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
Copyright (C) 2008 Hidetoshi Kawaguchi. All Rights Reserved.


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月14日月曜日

施本「仏教・空の理解」・第一章・はじめに

施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm



一、はじめに

 この浅学非才、未熟者の身ながらも、これまでに施本「佛の道」・「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」と発行させて頂きました。

 この度は、仏教の真なる理解のために、更に一歩進めて、この施本を執筆させて頂きました次第でございます。

 また一歩、仏法の真理の理解へと、この未熟者なりにも少しは近づけたのではないだろうかと僭越ながらも考えております。

 また、できましたら本論を読み進めて頂きます前に、施本「佛の道」・「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」を、まずはお読み下さいますことをお願い申し上げます。往生院六萬寺のホームページの中でも全文公開させて頂いておりますので、まだの方は、そちらでもご確認して頂きまして、お読み下さいませ。インターネットをされていらっしゃらない方は、それぞれ施本の残数に余裕がございましたら、ご送付させて頂きますので、お気軽にお申し出下さい。

 この施本がこれから読者の皆様方が、仏教の学びを進められる上におきまして、少しなりともご参考になるところがございましたら、誠に幸いでございます。

 また、仏教の真理につきまして、ここにおいて私が述べさせて頂きましたことが、絶対的に正しいとは、私自身も当然に思ってはおりません。

 なぜならば、人間の認識・判断・理解におきましては、その人の経験・学習・知識からの思考・思想・主義・主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意《しい》的要素が相当に入ってしまうことが多々あるため、当然に、まだまだ私自身においてもしかりであります。内容に関しまして、必ずご批判、ご反論もあることと存じます。ご批判、ご反論もしっかりと受けとめて、確かなる仏教の理解へ向けて、今後更に歩みを進めていければと考えております。

 また、私自身、本論における解釈・解説につきまして、ここに書かせて頂きました内容に執着するつもりも毛頭ございません。間違いは間違い、誤りは誤りとして認めるべきところが出てくれば、それはしっかりと受け入れて認めて、修正・変更して参りたいと考えています。

 そのため、本論を読み進めて頂きます上におきましては、あくまでも内容は、まだまだ一僧侶の未熟なる理解にしか過ぎず、仏教の真理につきましては、読者の皆様方の精進努力による真理探究、見極めも当然に大切であると考えております。

 このことをまずはご理解賜りまして、これからも共に仏教の学びを進めさせて頂ければ幸いでございます。

 生きとし生けるものたちが、幸せでありますように。三界における全てのものたちが、苦しみから解脱し、安楽なる涅槃へと至れますように。

川口 英俊 合掌

 今回の施本の執筆につきましては、そのきっかけとなり、直接の引用はないものの、全体を通じて参考とさせて頂きましたのが、「〈空観〉正しいものの観方」・故田中守道氏のサイト内容でございます。

URL:http://kukan.syudo.com/

 田中守道氏のご冥福を心からお祈りさせて頂きますと共に、誠に感謝を申し上げさせて頂きます。本当にありがとうございました。

 田中守道氏の残された志をしっかりと活かせるように、浅学非才、未熟者の私なりにも、更に仏教の真理の理解と実践に精進努力して参りたいと考えております。

 是非、皆様方も本論の内容と共に、「〈空観〉正しいものの観方」につきましても、お読みになることをお薦めする次第でございます。

引用について・・

 「中論」の邦訳につきましては、〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕からの引用でございます。

・・第二章に続く。

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
Copyright (C) 2008 Hidetoshi Kawaguchi. All Rights Reserved.


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月13日日曜日

施本「仏教・空の理解」・随時先行公開

さて、いよいよ明日からホームページ・ブログの方に施本「仏教・空の理解」の全文を随時先行公開して参ります。是非ともじっくりとお読み頂きまして、ご批正賜りますように宜しくお願い申し上げます。とにかく一歩一歩と考えております。

施本「仏教・空の理解」


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、無相、空、空性、虚空、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、仮設、虚妄(こもう)、虚仮、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、陽炎、逃げ水、蜃気楼、夢・・中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、煩悩即菩提、生死即涅槃、平等、真如、一如、法界、法性、諸法実相、仏性、如来蔵。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月12日土曜日

施本第三弾「仏教・空の理解」・校正大詰め

さて、施本第三弾「仏教・空の理解」、いよいよ校正も大詰めとなって参ります。とにかく要諦は「縁起」の理解。そして、而二不二・無分別の分別の理解、戯論の寂滅へと至って、諸法実相・真如の理解へと向かいます。ただ、今回、諸法実相・真如についてはあまり深く入り込まないように抑えました。いわゆる大乗仏教の大成・「如来蔵思想」の源流には、この浅学非才・未熟者にとって、あまり浅薄に踏み込まない方が良いと考えたからであります。とにかく一つ一つと考えております。

施本「仏教・空の理解」


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、無相、空、空性、虚空、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、仮設、虚妄(こもう)、虚仮、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、陽炎、逃げ水、蜃気楼、夢・・中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、煩悩即菩提、生死即涅槃、平等、真如、一如、法界、法性、諸法実相、仏性、如来蔵。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月11日金曜日

施本第三弾「仏教・空の理解」・公開日程

さて、施本第三弾「仏教・空の理解」、ホームページ・ブログでの先行公開の開始日程ですが、14日(月)から一日一章ずつで、計11章を24日(木)まで、随時アップ・掲載して参りたいと考えております。執筆完了が4/8で、施本発行日が4/28となります。ホームページ公開日は一応4/14と統一致します。是非、お楽しみにお待ち下さいませ。またご意見、ご感想、ご批正の程を賜りましたら幸いでございます。

施本「仏教・空の理解」


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、無相、空、空性、虚空、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、仮設、虚妄(こもう)、虚仮、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、陽炎、逃げ水、蜃気楼、夢・・中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、煩悩即菩提、生死即涅槃、平等、真如、一如、法界、法性、諸法実相、仏性、如来蔵。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月10日木曜日

勝義諦における「縁起」

さて、いよいよ施本「仏教・空の理解」の発行へと向かうわけでありますが、とにかく今回の執筆においてはその中核理論となりましたのが、龍樹菩薩の「中論」であります。やや哲学的論考の側面があるかとは思いますが、じっくりと理解を進めていければ、勝義諦における「縁起」のありようが少しでも解明できていくのではないかと考えております。その僅かなきっかけともなれば、誠に幸いでございます。

施本「仏教・空の理解」


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、無相、空、空性、虚空、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、仮設、虚妄(こもう)、虚仮、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、陽炎、逃げ水、蜃気楼、夢・・中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、煩悩即菩提、生死即涅槃、平等、真如、一如、法界、法性、諸法実相、仏性、如来蔵。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月9日水曜日

印刷製本の打ち合わせ

いよいよ施本第三弾「仏教・空の理解」の印刷製本の打ち合わせが終わりました。後は校正を二・三回行って発行へと向かうことになります。内容に関しましては、浅学非才・未熟者の今の私なりにギリギリ限界まで醸成させることができたのではないかと考えております。もちろん、まだまだ至らない点が多々あるとは存じます。とにかく仏法真理の学びの一里塚。しっかりと精進努力を進めて参りたいと考えております。

施本「仏教・空の理解」


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、無相、空、空性、虚空、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、仮設、虚妄(こもう)、虚仮、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、陽炎、逃げ水、蜃気楼、夢・・中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、煩悩即菩提、生死即涅槃、平等、真如、一如、法界、法性、諸法実相、仏性、如来蔵。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月8日火曜日

釈尊降誕会

釈尊降誕会に際して・・

「天上天下唯我独尊」・・お釈迦様の生誕時に言われたとされるのが通説ですが、過去七仏の第一仏である毘婆尸仏が述べたとされるのが有力であります。

「わたしは世界の最高者である。わたしは世界の最尊者である。わたしは世界の最勝者である。これが最後の誕生である。もはや再生はない。」として、この世における、あらゆるとらわれ・束縛・所有・執着(我執・妄執・愛執)・煩悩を完全に滅し終えて、再び迷い苦しみの世界に戻ることがない、輪廻から完全に解脱したと宣言されたのであります。もちろん、お釈迦様も王城を出られて出家され、やがてお悟りを開かれて涅槃へと至る道を衆生にお説きになられるのであります。

吉祥なる縁起の法を説かれた最勝者たる世尊に深く敬礼奉ります。

・・

さて、施本・第三弾「仏教・空の理解」も、いよいよ発行へ向けまして本格作業となります。日程としましては、四月中旬に最終校正完了、ゴールデンウィーク直前には刊行になると考えております。また発行より先行しまして、ホームページ・ブログの方には随時アップして参りますが、4/15前後から一日一章ずつを予定致しております。

題「仏教・空の理解」


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、無相、空、空性、虚空、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、仮設、虚妄(こもう)、虚仮、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、陽炎、逃げ水、蜃気楼、夢・・中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、煩悩即菩提、生死即涅槃、平等、真如、一如、法界、法性、諸法実相、仏性、如来蔵。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月7日月曜日

施本第三弾「仏教・空の理解」・表紙

さて、いよいよ施本第三弾「仏教・空の理解」の印刷製本打ち合わせの日も近づき、随時校正を進めております。また、表紙の題字に添える文字を半紙に筆で書きました。今回書いた中から選ぼうと考えております。文字?記号?・・前回「一円相」にも近い感じであります。本論の趣旨上、当初は一字で「夢」か「黙」を考えておりましたが・・また楽しみにしておいて下さい。「夢」・「黙」でも、正直かなり迷ったのは確かであります。

題「仏教・空の理解」


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、無相、空、空性、虚空、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、仮設、虚妄(こもう)、虚仮、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、陽炎、逃げ水、蜃気楼、夢・・中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、煩悩即菩提、生死即涅槃、平等、真如、一如、法界、法性、諸法実相、仏性、如来蔵。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月6日日曜日

「縁起」

施本第三弾の要諦は、章にもありますように「空論・空仮中の三諦」・「世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦」でありますが、その二つと並んで「縁起」の理解も大切となっております。空仮中の三諦の理解の根本としてもこの「縁起」が重要な役割を担っています。前二作の「縁起」と違い、いわゆる「勝義諦(第一義諦)」に近い扱いでの「縁起」の解釈となっております。確かに難解でありますが、しっかりと私なりにお伝えできればと考えております。

題「仏教・空の理解」


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、無相、空、空性、虚空、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、仮設、虚妄(こもう)、虚仮、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、陽炎、逃げ水、蜃気楼、夢・・中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、煩悩即菩提、生死即涅槃、平等、真如、一如、法界、法性、諸法実相、仏性、如来蔵。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月5日土曜日

施本第三弾の進捗状況

さて、施本第三弾の進捗状況ですが、印刷製本の打ち合わせ日時も決まりました。粗原稿の校正も進んで、いよいよ発行へ向けて調えて参ります。全体で4万2千字弱となり、おそらくは70ページ前後になるものと思われます。一時間半ほどあれば読み終える文量であります。第三弾は主にお盆施餓鬼法要の際にお配りさせて頂くことになると考えております。また各種法要の際にも前二作と共に配布できればと考えております。もちろん、ホームページの方には全文公開致しますので、是非お読み下さいましたら幸いでござます。

題「仏教・空の理解」


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、無相、空、空性、虚空、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、仮設、虚妄(こもう)、虚仮、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、陽炎、逃げ水、蜃気楼、夢・・中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、煩悩即菩提、生死即涅槃、平等、真如、一如、法界、法性、諸法実相、仏性、如来蔵。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月4日金曜日

施本第三弾

施本第三弾、いよいよ粗原稿も上がって、適宜校正を行っておりますが、またホームページ・ブログの方にも随時公開させて頂きます。前々回は、初期仏教の学びを中心として、前回は、唯識論の学びを中心として、そして今回は、空の理論(中観派)の学びを中心として、前作の内容についても改めまして考察を行いました。まだまだ浅学非才、未熟者ですが、少しずつ仏教の学びは進んでいると確信致しております。是非、またお読み頂きまして、ご意見、ご批正を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。

題「仏教・空の理解」


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、無相、空、空性、虚空、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、仮設、虚妄(こもう)、虚仮、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、陽炎、逃げ水、蜃気楼、夢・・中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、煩悩即菩提、生死即涅槃、平等、真如、一如、法界、法性、諸法実相、仏性、如来蔵。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月3日木曜日

施本第三弾「仏教・空の理解」・粗原稿上がる

さて、いよいよ施本第三弾の粗原稿の校正が終わりました。全体で4万1千文字ほどとなりました。あと少し校正を進めて後にいよいよ印刷製本業者との打ち合わせに入ります。おそらくは70ページほどになると思われます。まだ今回の表紙の文字については決めておりません。前回は「一円相」、前々回は「佛の道」でありました。今回も全体の雰囲気を端的に表せる文字を考えております。

題「仏教・空の理解」


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、無相、空、空性、虚空、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、仮設、虚妄(こもう)、虚仮、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、陽炎、逃げ水、蜃気楼、夢・・中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、煩悩即菩提、生死即涅槃、平等、真如、一如、法界、法性、諸法実相、仏性、如来蔵。

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施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月2日水曜日

「空」の理解

施本第三弾は、誠に仏教においても難解なる「空」の理解へと近づくための、その一歩としたいところでありますが、やはり非常に難しいものとなっております。それは、どうしても戯論(形而上学的議論)のギリギリのところを扱うからであります。つまり、言語表現を超えたところのものへの近づきであります。これは、お釈迦様が「無記の沈黙」でも示されましたように、「沈黙せざるを得ないところのこと」であるからであります。それが故に、実に難解中の難解であります・・

題「仏教・空の理解」


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、無相、空、空性、虚空、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、仮設、虚妄(こもう)、虚仮、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、陽炎、逃げ水、蜃気楼、夢・・中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、煩悩即菩提、生死即涅槃、平等、真如、一如、法界、法性、諸法実相、仏性、如来蔵。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

2008年4月1日火曜日

「仏教・空の理解」

さて、いよいよ執筆を進めております施本第三弾の粗原稿が調って参りました。まだまだ変更も考えられますが、その題と章がほぼ決まりました。

題「仏教・空の理解」


一、はじめに
二、仏教の基本法理・四法印の理解
三、空論・空仮中の三諦について
四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について
五、而二不二《ににふに》・再考察
六、無分別について・再考察
七、生と死を超えて
八、悩み苦しみを超えて
九、慈悲喜捨の実践について
十、諸法実相・真如について
十一、最後に

でございます。とにかくしっかりと仕上げて参りたい考えております。

空・仮・中の三諦・・

無我、無自性、無相、空、空性、虚空、無自性空、縁起空・・仮有、仮名(けみょう)、仮設、虚妄(こもう)、虚仮、錯覚、幻(まぼろし)、幻覚、幻想、幻影、陽炎、逃げ水、蜃気楼、夢・・中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、煩悩即菩提、生死即涅槃、平等、真如、一如、法界、法性、諸法実相、仏性、如来蔵。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」