2008年2月29日金曜日

龍樹菩薩の中観

施本第三弾の本格執筆に入る前に、中論について今一度しっかりと学びを始めることとしました。

中論―縁起・空・中の思想 (上・中・下) レグルス文庫


とにかく初期大乗仏教の体系を確立させた龍樹菩薩の中観の理解に取り組むことから進めます。ここにきてやっとかと思われるかも知れませんが、浅学非才・未熟者の身、付け焼き刃ぶりが目立った前作の反省であります。唯識論に触れる前にしっかりと取り組んでおくべきでありました。

とにかく一つ一つ一歩一歩であります。

施本「佛の道」
施本「仏教~一枚の紙から考える~」

2008年2月28日木曜日

「絶対矛盾的自己同一」

故田中守道氏のサイト、「〈空観〉正しいものの観方」・「2-12『矛盾について』」における「観燃可燃品第十」の内容について26日に触れさせて頂きましたが、更にその中から引用の引用ですが、・・(『龍樹・親鸞ノート』三枝充悳著法蔵館刊より抜粋引用)・・

『いま火が燃えさかっている薪というありかたを見てみよう。私たちは、そこに火があり、薪がある、という。しかしながら、そのメラメラと燃えているどこからが火で、どこまでが薪であるか、それをはっきりと区分して、ここが火でここが薪だとすることは、なんびと荷も不可能である。両者は一体となって――両者の区分を全面的に拒否しつつ全く一体化していて、そしてそこに火があり薪があるといわれる。
 一体化して燃えあがる以前には、火はそこにはない。薪も単なる木片にすぎず、まだ薪(燃料)とはなっていない。燃えはじめたときに、すでに木片は単なる木片ではなくて薪と なり、火もまたそこに現前化する。そして上述のようなありかたにおいて、両者が或る点において結合して一体化してはじめて、火があり、薪がある、という。
 これは両者の一体性をあらわしており、且つ相互肯定的なありかたを示している。縁起のいわゆる相依性(相互依存関係)がここに表明されている。
 ところが現実に薪に燃えている火は、決して静止したままではいない。火はさらに燃え盛っていくか、または徐々に消えかかっていくか、どちらかいずれかである。この場合、火が燃え盛っていくとは、薪を減少させていくことである。火が消えかかっていくとは、薪を増大させていくことである。いかえれば、火を肯定していくことは、薪を否定していくことであり、逆に、火を否定していくことは、薪を肯定していくことになる。すなわち、火と薪との肯定・否定の関係は、前に述べた場合とは異なって、一方の肯定が他方の否定に通じて、相互に反対の関係にある。ここには、縁起は相互排除性を孕んでいて、さらに押し進めれば、矛盾的対立のありかたを示している。縁起のいわゆる逆の形の相依性が表明されている。
 さらに火がいっそう燃えていったならばどうなるか。薪はますます小さくなる。火を肯定し、薪を否定することが進行していって、ついに薪が燃え尽きたときに、火の存在する 場所がすでにない。こうして火もまた消滅する以外ない。いいかえれば、火はすでにそこに存在せず、否定されている。すなわち、肯定の一方的進行がそれ自身の自己否定というありかたで終止符を打つこになる。
 それとも逆に、火がだんだんと消えかかっていくならばどうか。薪は燃える場所を減らし薪の部分を増大する。火の否定の進行が薪の肯定の進行に繋がりながら、もしも火が消 えてしまって、火の否定が成就したとき、そこには薪もまた存在せず、一個の木片がころがっているにすぎない。すなわち、否定の進行が、当然そのものの否定の完成となり、同時にそれと矛盾的対立にあった――即ち肯定を進行させていたものも滅び去って、そこにはやはり自己否定があらわとなる。
 こうして、対立し合う二者の間の肯定・否定の進行は、もともと相反的であるはずであり、初めはその通り進んでいって、一方の肯定=他方の否定となり、一方の否定=他方の肯定となるけれども、もしも一方がそれを強制し、自己の肯定のみを(すなわち他方の否定のみを)強行するときには、その肯定が他方の存在そのものを消滅させて、肯定が成就したかに見える場合、いつか自己も消滅せざるを得ず、肯定どころか、否定をも突き破って、肯定ないし否定するその当体がすでにそこに存在しない。即ち相互対立に於ける両者は、対立を残していない限り、みずから自己を滅ぼしてしまう結果を招く』・・引用ここまで。

これこそがつまり、西田幾多郎氏の哲学大成「絶対矛盾的自己同一」、そのままのことではないかとふと気づきました。おおーという感じであります。

2008年2月26日火曜日

「生死事大 無常迅速 各宣醒覚 謹莫放逸」

昨日に「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」における訂正に関連しまして、故田中守道氏のサイト、「〈空観〉正しいものの観方」をご紹介させて頂きました。

その中の「2-12『矛盾について』」において、「観燃可燃品第十」の内容に触れられいます。誠に中論を考える上で非常に重要な論考の一つであります。

有無の分別にとらわれると苦しむこととなる・・

燃えている薪を見て、私たちは炎・火と薪を分けて識別しますが、現実は、どこからが炎・火で、どこからが薪かはわかり得ないのであります。「有る」と囚われると執着して無常なる中、刻々と移ろい変わり滅していくことが苦しみとなり、かといって無いとしてしまうと、虚無主義・悲観主義となり、現実は無いとも言えないのに「断滅・無い」に囚われて苦しむこととなる・・そのどちらにも囚われない、執着しないのが、仏法の中道であります。

とにかく迷い苦しむことを無くしていかねばならないのであります。

施本「佛の道」
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

現在、施本第三弾の執筆に入るべきかどうかを思慮しております。前作の訂正のような間違いを犯してしまうところを見ると、やはりまだまだ早いのではないか、浅学非才、未熟者の付け焼き刃ぶりがまたも出てしまえば、読者の皆様にご迷惑が掛かるのではないかと危惧致しております・・

しかし、「生死事大 無常迅速 各宣醒覚 謹莫放逸」。迷っている時間など無常なる中では正直無いのであります・・仏法の真理探究へ向けて、とにかく未熟者の拙僧なりにでも更に精進努力・実践を行っていかなければなりません。

早速、第三弾の執筆に少しずつながらでも入ることと致しました。発行出来はおそらく夏頃になると予想しております。反省を生かしてしっかりと仕上げたいと考えております。

2008年2月25日月曜日

「〈空観〉正しいものの観方」

さて、先日に「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」における訂正をお示しさせて頂きました。

つまりは「非有非無」の空、「非有非無」の中道についてしっかりと思慮考察していなかったために、そのような間違いを犯してしまったわけであります。

このような中、このことについて思慮考察するに当たって、非常にすばらしいサイトを見つけさせて頂きました。それが、

故田中守道氏のサイト、「〈空観〉正しいものの観方」でございます。

実は、このサイトの管理人・故田中守道氏とは数年前にニアミスとも言える接点があったのであります・・

故田中守道氏は、蓮の写心家として有名で、不二写心事務所を主宰されていて個展も多く開催されていました。

実は東大阪市ででも2004年に市民美術センター特別展で「蓮によせて―いろいろなハスのかたち」において、「百の蓮を観る」として蓮の映像放映・講演もされていたのであります。2005年にも再び「蓮の幻想Ⅱ」と題しての個展も開催されていました・・

2004年開催の時には、東大阪市東地区仏教会も後援したように思います。また、そのおりには、当山の住職も特別展の展示物に少し関わったと記憶しています。

もしも、私が既に故田中守道氏の仏教観について事前に少しでも触れていたとすれば、関心が芽生え、故田中守道氏の仏教観についてのお話をお聞きしたかった・・と時既に遅しを実感した次第であります・・

田中守道氏のご冥福を祈ると共に、田中氏が残した功績、目指した志について、少しなりとも理解を進めて実践できていければと考えております。

「〈空観〉正しいものの観方」は誠に空観を考察思慮する上ですばらしい内容でありますので、是非皆様方もお読みになられることをお薦めする次第でございます。

平成20年2月25日 川口 英俊 合掌

2008年2月24日日曜日

プチコッコ逝去に際して

今朝にプチコッコが逝去致しました。

2002年11月27日に生まれた二羽のプチコッコが、縁により2003年2月に当山に参りまして、寺務所横の小屋にて過ごすこととなりました。2004年10月に一羽が逝去し、残った一羽がこの度逝去致しました・・

プチコッコのページ
http://oujyouin.com/puchicoco.htm

在りし日のプチコッコの画像がたくさんあるブログ
http://yaplog.jp/hidetoshi/

http://ameblo.jp/hidetoshi-k

私自身、様々な苦しい時にどれほどに心の支えとなったか分かりません・・また、お参りの方々にも大変に人気があり、みんなに可愛がって頂けました。ありがとうございました。

しかし、諸行無常なる中、この度のプチコッコだけが、特別だという思い、愛執ももちろんありません・・ただ、安らかなる涅槃へと至ってくれることを願い、供養致しました。

「プチコッコ、ありがとう、さようなら」。

一羽目と共に眠る


・・

身近なものたちの逝去、あらゆるものの生滅変化に際して、あらかじめに思慮しておくべきことについて。以下参照。

「ブッダ最後の旅」中村元訳 岩波文庫
(大パリニッバーナ経・大般涅槃経)より・・

お釈迦様の最後の時を察し、号泣しているアーナンダに対して、お釈迦様はこのように言われました。

「やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、---すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころの行為によって、向上し来れる人〈=ゴータマ〉に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努めはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。」

お釈迦様、臨終の言葉

「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」
 これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。

尊師が亡くなられたときに、亡くなられるとともに、神々の主であるサッカ(=帝釈天)が次の詩を詠じた。---
「つくられたものは実に無常であり、生じては滅びるきまりのものである。生じては滅びる。これら(つくられたもの)のやすらいが安楽である。」

お釈迦様がお隠れになられた時、まだ愛執の離れていない修行僧たちは嘆き悲しみ苦しみに打ちひしがれましたが、既に愛執を離れた修行僧たちは、「およそつくられたものは無常である。どうして〈滅びないことが〉あり得ようか?」とよく耐え忍びました。尊者アヌルッダは修行僧らに告げた、---「止めなさい。友よ。悲しむな。嘆くな。尊師はかつてあらかじめ、お説きになったではないですか。---〈すべての愛しき好む者どもとも、生別し、死別し、死後には境界を異にする〉と。友らよ。どうしてこのことがあり得ようか?何でも、生じ、生成し、つくられ、壊滅してしまう性のものが、壊滅しないでいるように、というような、こういう道理はあり得ない。・・」

・・ここまで。

施本「佛の道」・第五章・涅槃寂静 より
http://www.hide.vc/hotokenomichi5.html

「諸行無常
 是生滅法
 生滅滅已
 寂滅為楽」

 私の解釈

「諸行は無常であり、これは生じては滅するという理《ことわり》である。この生滅の理の真実が正しくそのままを理解できずに悩み煩ってしまうことが、私たちの苦しみの原因であり、この苦しみの原因となってしまっている妄想の集まりである煩悩の生滅を滅しおわって、煩悩を完全に寂滅して、ようやくに苦しみから解脱した安楽なる涅槃・悟りの境地へと至ることができるのであります。」

・・ここまで。

「こんにちは、ありがとう、さようなら」であります。

平成20年2月24日 川口 英俊 合掌

2008年2月18日月曜日

2/23 東大阪市・まちづくりフェスタ

やまなみプラザ企画運営委員会も参加する「2/23 東大阪市・まちづくりフェスタ」の紹介

と き:平成20年2月23日(土曜日)午前10時~午後4時
ところ:布施駅前リージョンセンター(夢広場)5階

市民活動団体(NPO法人・ボランティア団体・リージョンセンター企画運営委員会)等が集まり、日々の活動を紹介する展示コーナー、子どもたちが遊べるコーナー、多目的ホールでは、地域まちづくり活動助成金の交付団体の成果発表会、ピアノコンサート、先進事例の発表、ミニコンサートを行います!!



詳細は東大阪市・市民生活部・まちづくり支援課のページに。
http://www.city.higashiosaka.osaka.jp/070/070170/index2.html

やまなみプラザ企画運営委員会ホームページ
http://www.hct.zaq.ne.jp/yamanami/

2008年2月17日日曜日

「非有非無」・「無分別智」

施本「佛の道」「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」


昨日に、「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」における訂正をお示しさせて頂きました・・

誠に「非有非無」、「有(ある)というわけでもなく、無いというわけでもない」という「無分別智」について、もう少ししっかりと触れておくべきであったと反省致しております・・

既に施本二冊についての執着ははずしておりますが、これからも仏法の学びを進めていく中で、随時その内容についての検証を繰り返して参ります。これまでは所謂、般若心経における「色即是空」までの理解、そしてこれから「空即是色」の考察へと入るかどうかというところであります。もしくは「空即是色」には安易に入らない方が良いのかもしれないということについても慎重に思慮致しております。

2008年2月16日土曜日

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」・本文・訂正箇所

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://www.hide.vc/buddhism1p.html

本文・訂正箇所

「四、唯識論について」 P27、12・15行目
http://oujyouin.com/buddhism5p.html

「無存在」→削除

でございます。

無存在と無自性を並列に書いてしまったのはかなりまずかったと反省致しております。無存在ということは虚無主義に陥ってしまう恐れもあり、今回削除することと致しました。

「非有非無」についてしっかりと触れておけば良かったと考えております。「無存在」の記述は明らかな誤りでありますので、ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

平成20年2月16日 川口 英俊 拝

2008年2月15日金曜日

第31回東大阪市民会議提言書提出

今日は午後から昨日に続いて東大阪市総合庁舎へと行って参りました。

東大阪市民会議、第31回市民会議提言書を市長・議長・副議長へと手渡し、提言を行いました。昨年、10/8に開催された市民会議において参加された市民の皆様から頂きました意見・提言、議論が集約された提言書をお示ししながら、プランニング委員からの説明、補足意見と懇談も行いました。提言内容が市の施策にしっかりと反映されることを強く願う次第でございます。

市長への手渡し


市長との意見交換


議長・副議長への手渡し


議長・副議長との意見交換


また提言書の全文は、下記のページでも公開されますので是非チェックして下さいませ。

東大阪市民会議

また提言を行いました様子はケーブルテレビでもニュースの中で放映されます。とにかく委員一年目、一つ一つ勉強であります。

2008年2月14日木曜日

第1回東大阪市生涯学習市民推進会議

今日は午前中、東大阪市総合庁舎へと行って参りました。

第1回東大阪市生涯学習市民推進会議に出席。

・委員紹介、会長・副会長の選出
・本市の生涯学習の推進経過等について
・意見交換
・今後の計画について
・その他

東大阪市民会議プランニングチームから出向することとなって委嘱(任期二年)を受けて参加させて頂きました。主には、平成18年度・第二次東大阪市生涯学習推進計画の総合進捗状況の確認、第三次計画策定へ向けた動きの確認、委員意見交換が行われました。私もこれまでの市民活動からの意見を少し述べさせて頂きました。まだ第一回と言うこともあり、自身、要点があまりつかめていない部分が多々ありますが、一つ一つ勉強しながら、今後の議論の中で、少しずつでも生涯学習について提言できていければと考えております。

事務局 東大阪市・教育委員会事務局・社会教育部・社会教育課
http://www.city.higashiosaka.osaka.jp/240/240010/index2.html

東大阪市総合庁舎


・・

今日はやまなみ広報紙31号最終校正の確認も行いました。いよいよ印刷段階へと移りました。

やまなみプラザ企画運営委員会ホームページ
http://www.hct.zaq.ne.jp/yamanami/

市民活動もとにかく一つ一つであります。。

2008年2月12日火曜日

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」発行出来

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」、本日に発行出来が到着しました。






随時、前作と並べて寺務所前での配布、各種ご供養の際にもお配りさせて頂きますので、是非お読み下さいませ。ご意見、ご感想もお持ち致しております。

ホームページ・ブログ上では全文公開致しております。
http://www.hide.vc/buddhism1p.html

さて、既に内容につきましての執着ははずしておりまして、また更に仏法の真理探究へ向けた学びを一つ一つ進めて参りたいと考えております。

前作「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

「仏教考察特別リンク集」を更に充実させました。
http://oujyouin.com/links1.html

2008年2月11日月曜日

八、最後に

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
四、唯識論について・中・2
四、唯識論について・下・1
四、唯識論について・下・2
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・上
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・下
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

八、最後に

 この度は、前作「佛の道」に続きまして、誠に未熟で浅学非才の身でありながら、僭越にも、仏法につきまして私なりの解釈を更にまとめさせて頂きました。 

 もちろん、まだまだ至らない点も多々あるものと思われますので、その点、ご容赦の程賜りますればと存じます。少しなりとも皆様方にとって、仏法のご理解、学びを進められるお役に立つことができたと致しましたら、誠に幸いでございます。

 また、今後、この施本の内容・文章に関しまして、誤字脱字の訂正、追記補充、修正・変更、削除などが少なからずも出てくるものと考えております。更には、これからの自身における仏教の学びの進み具合におきまして、解釈上の修正・変更も考えられます。

 これらのことを考慮しまして、発行後、ホームページ上にて、全ての文章を公開させて頂いた上で、随時、修正・変更などをお示しさせて頂きますので、前作「佛の道」と共に、今後、機会がございましたら、ご確認を頂きますように宜しくお願い申し上げます。

 往生院六萬寺ホームページ内(URL www.oujyouin.com/)か、もしくは施本の題名と私の名前で検索して頂ければ、そのページをご覧になれるものと思います。

 この本の初版は、施本としまして著者・川口英俊の自費出版により発行させて頂きました。ご入用の方は、往生院六萬寺までご連絡下さい。数に余裕がありましたら、ご送付させて頂きます。

 また、増刷、次回刊行へ向けまして、施本にご賛同ご協力頂けます方のご支援を「施本布施」として、郵便局内にある「払込取扱票」をご利用下さいまして、ご送金賜りますれば、誠に幸いでございます。
 
往生院六萬寺
郵便振替番号 00910-3-330569
※必ず「施本布施」と通信欄にお書き下さい。

 最後になりましたが、この本の刊行に際しまして、ご協力を賜りました方々に、心から感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
 
 生きとし生けるものたちが、幸せでありますように。三界における全てのものたちが、苦しみから解脱し、安楽なる涅槃へと至れますように。

平成二十年一月二十一日
 
川口 英俊 合掌


著者プロフィール

 川口 英俊(かわぐち えいしゅん)
 昭和五十一年 東大阪生まれ
 臨済宗妙心寺派・禅専門道場で修行
 岩瀧山 往生院六萬寺 副住職
 URL www.oujyouin.com/
 他、参照 URL www.hide.vc/

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
Copyright (C) 2008 Hidetoshi Kawaguchi. All Rights Reserved.

2008年2月10日日曜日

七、悩み・苦しみを超えて

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
四、唯識論について・中・2
四、唯識論について・下・1
四、唯識論について・下・2
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・上
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・下
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

七、悩み・苦しみを超えて

 さて、前作「佛の道」もお読み頂きました皆さんは、ある程度気づかれたことであると思いますが、前回は初期仏教の学びからの仏法の真理の理解を中心として、今回は大乗仏教(特に唯識論)の学びからの仏法の真理の理解を中心として、書かせて頂きました。

 初期仏教も大乗仏教も共に涅槃寂静を目標として、諸行無常・諸法無我の真理の理解を進めていくわけですが、ただ目標へのアプローチの仕方に少し相違があるだけで、どちらが優れている劣っているということはないと考えています。

 あえて述べさせて頂くとすれば、「無我」へのアプローチについて、唯識論は、かなり理論化されている印象を受けたものの、その分、理解するのが結構難解であるとも感じました。

 また、初期仏教から改めて仏教の学びを進めて、それから大乗仏教の学びも進めてみると、ある程度理解が進みやすかったという感じでもあります。もちろん、所詮はまだまだ浅学非才の未熟者の感想なのですが・・

 さて、とにかく今回の内容によって、この色々と虚妄分別してしまっている世界に過ごす中において、物事の見方が、今までと比べて少しでも変わったとすれば、誠に嬉しいことであります。

 もしも今回の内容で、少しなりとも心が安らかに、清らかになって頂けたとして、そのことを比喩的に述べるとするならば、例えば誰もがその気になれば、すぐに出会うことができる産まれたての純粋無垢《むく》な赤ちゃんと触れ合った時に感じるような、そんな心の安らかさ、心の清らかさと似ているのではないかと思います。

 なぜならば、純粋無垢な赤ちゃんは、私たちよりも遥かに「我」が無く、欲・渇愛・執着が少なく、私たちが色々と分別して作り出してしまっている言葉も知らないですし、もちろん、虚妄分別することからも離れているからであります。当然に、私たちが何も分からないままに、普段抱えて悩み苦しんでいるような二項対立・二元対立の矛盾も何も関係ありません。

 純粋無垢な赤ちゃん、そのような存在に出会った時に感じる、誠に何とも言えない不思議な安らかさ、清らかさ・・もちろん、それはまぎれもなくかつての自分自身も経たことのある、もはや忘れ過ぎ去ってしまった過去なのであります。いや、そのかつての純粋無垢な自らの心にフッと戻ったために、安らかさ、清らかさを覚えるのかもしれませんね。

 また、その純粋無垢な赤ちゃんを慈悲の心でいつも優しく守っている母親のような存在が、「仏法」であると例えることができるのではないだろうかと僭越ながらも考えております。誠に「仏法」は有り難きでございます。

 とにかく悩み煩ってしまって苦しむことを無くし、確かなる安楽な涅槃へ向けて、しっかりと仏道の歩みを一歩一歩進めて参りましょう。

・・第八章に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
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2008年2月9日土曜日

六、一枚の半紙から・補足余談

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
四、唯識論について・中・2
四、唯識論について・下・1
四、唯識論について・下・2
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・上
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・下
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

六、一枚の半紙から・補足余談

 さて、少し話を身近なところに戻してみたいと思います。私は現在、書道を習いに教室に通っていますが、習い始めた頃、普通に文房具店で市販されている一枚一~二円ほどの半紙で練習していた時に、先生から、「その紙では裏のザラザラの部分で書きなさい」と指導を受けて、当初はかなりそのことに抵抗がありました。

 なぜなら、これまで、半紙はツルツルの部分が表で、そこに書くことを当たり前と考えていたからであります。つまり、半紙に書くのは、ツルツルの部分が表で、ザラザラの部分は裏ということが、当然に正しいと思い込んでいたからであります。

 しかし、先生は、その半紙では、確かにツルツルの表で書くことで、綺麗に見せることができるが、筆が滑りやすいことと、その書かれた文字を見るだけでは、正確な筆遣いの技量をなかなか推し量ることができないということで、練習、正確な指導のためにも、その半紙では裏のザラザラの部分で書きなさいという趣旨で、そう言われたのでありました。

 そうこうしているうちに、しばらくして、練習・清書用共に、一枚五円ほどする半紙を常用することになりましたが、その時にようやく先の半紙でザラザラの裏で書いていたことについての抵抗が無くなったのであります。その半紙の表はまさに先の半紙の裏と同じような感じでの書き具合となり、また、作品として条幅などに書く半切などの紙も同様の書き具合だったからであります。なるほど、先生の指導は理にかなったことだったのかと改めて気づいたのであります。

 さて、この話題で何が言いたいのかといいますと、やはり「正しい」という思い込みであります。表と裏も単に思い込みで、こちらが表で正しい、こちらが裏で正しいとしてしまって固執していたために、裏で書きなさいと言われたことで、抵抗が生じてしまったわけであります。また、もしも先生の言うことを聞いていなかったら、上達が遅れていたかもしれないということであります。

 このように、普段私たちが「正しい」としていることには、施本「佛の道」の中でも何度も出て参りましたフレーズ「主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素」、つまり「我」が大きく関係してしまっているということであります。

 仏教的に説明しますと、「諸法無我」において、諸行無常なる中、固定した実体としての「我」はどこにも無いのに、我に囚われてしまって「我執」してしまえば、主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素が顔を出して、表・裏も勝手に世間の常識、自分の主観・偏見・都合でこちらが表で正しい、こちらが裏で正しいとして執着し、妄執して迷い苦しんでしまうことがあるのであります。本当はたった一枚の紙について、表も裏も私たちが勝手に恣意的に判断しているだけということでもあります。そういった虚妄分別、妄想はしっかりと捨てなければならないというわけであります。

 こういう何気ない日常のことでも、気を付けていると「諸法無我」の理解が及んでいくのであります。

 皆さんも普段の生活の中での「気づき」を常に大切にして、真理に一つ一つ目覚めていけるようにして参りましょう。

・・第七章に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
Copyright (C) 2008 Hidetoshi Kawaguchi. All Rights Reserved.

2008年2月8日金曜日

五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・下

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
四、唯識論について・中・2
四、唯識論について・下・1
四、唯識論について・下・2
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・上
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・下

 このように、皆さんに用意して頂いた紙で、書いた文字のモノも、書いたその文字、その書いた文字の紙、その紙について表だ裏だと虚妄分別してしまったことも、更には書いた己でさえも、ただ「縁起空」で、実は「無い」のであります。あらゆるものは、因縁生起という他に依存して、他によって生起しているということで、このことを依他起性と言うわけであります。

 また、禅語に「万法帰一《まんぽうきいつ》」という言葉がありますが、あらゆる全ては「縁起空」ただそれのみに帰するのだと考えることができます。

 そのことのあるがままを理解するためにも、「我・主体・主観」など自我に執着している自我意識、我執を無くして、自他分別を無くし、更に虚妄分別を無くして、この世のあらゆるものを平等に、実相のそのままを観じ察するようにしていかなければならないのであります。

 さて、これまで考察して参りましたように、虚妄分別したものには、実は分別は無い、ただあらゆるものは、空(縁起空)・真如のみということを円成実性と言うわけであります。

 簡単に述べると、この世におけることで分別は無い、できないということを「而二不二」と言うわけですが、唯識論では、「不即不離」「不一不異」と表されたり、般若心経では「不生不滅」・「不垢不浄」・「不増不減」と言う表現で出てきていますし、同様に「煩悩即菩提《ぼだい》」、「生死即涅槃」とも表現することもあります。また、このことは、鈴木大拙氏・「即非の論理」、更には西田幾多郎氏・「絶対矛盾的自己同一」にも通じるところではないかと考えております。

 しかし、これらのことは理解するに際して、やはり十分なる仏法の真理についての思慮・考察、仏道修行の前提が必要になるものと考えております。

 また、これらの言葉を使って、分別の無いことを示しているつもりであっても、実はそれでさえも「無分別を分別」しているに過ぎず、本当のところはもう言葉では表現できないのであります。

 ですから「不○不×」や「○即×」という表現は、実はできない、表現していてもやむを得ずに、仕方なくそうしているだけであるというのが、正直なところであります。ではそれを、誠に不十分で僭越なことながらも、最大限にこの本で表してみると試みれば、















































 となり、白紙の紙に、どちらが表でどちらが裏ですかと聞かれても、答えられないことに近いものと考えています。

 また、このことを仏教的に述べさせて頂くとすれば、維摩経《ゆいまぎょう》に記述されている維摩居士(架空の人物とされている)と文殊菩薩様とでやりとりされた不二法門《ふにほうもん》の問答における、最後に維摩居士の回答の「一黙」、つまり黙って何も語らなかったこと、と同意であるとして便宜上、白紙の部分をやむなくにも、そう理解して下さいませ。この維摩居士の一黙は、「維摩の一黙、雷の如し」と称されています。

 維摩経は、架空の物語とされていますが、維摩居士を主人公として、お釈迦様の十大弟子たちとのやりとり、文殊菩薩様とやりとりした問答などが主に記されています。大変に興味深い内容ですので、機会がありましたら是非、専門書・解説書をお読み下さいませ。

 さて、前回の施本でも述べさせて頂いておりましたように、あとは、それぞれにおける四法印・四聖諦の真理の真なる理解、八正道、戒・定・慧の三学、八大人覚《はちだいにんがく》(少欲・知足・楽寂静・勤精進・不忘念・修禅定・修智慧・不戯論)、五根五力(信・精進・念・定・慧)、七覚支《しちかくし》(念・択法《ちゃくほう》・精進・喜・軽安・定・捨)、六波羅蜜、更には六波羅蜜に「方便(間接的な方法で智慧を開発させること)・願(仏道の成就を誓願し、実践努力すること)・智(一切を見通す智慧を得ること)・力(善行を実践する力・真偽判別力を養うこと)」の四つも加えられた「十波羅蜜」などの確かなる学び・実践によってこそ、表現できないところのことも含めて真に正覚し、智慧を開発していかなければならないものであると考えております。共に精進努力して参りましょう。

 また、この浅学非才、未熟なる者のこの内容においてでも、少しでも読者の皆さんの迷い苦しみが無くなって、心が安らかに、清らかになって頂けたとすれば、誠に幸いでございます。

・・第六章に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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2008年2月7日木曜日

五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・上

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
四、唯識論について・中・2
四、唯識論について・下・1
四、唯識論について・下・2
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》・上

 さて、ここで話を一枚の紙に戻しますが、私たちがいつも分別しているものは、虚妄であり、分別は無い、つまり、「二なるものが無い」ということで、二つに分別しているものは、実は二つでは無い、つまり「而二不二」の理解に及んでくるわけでありますが、このことを「一枚の紙」で改めて考えてみたいと思います。

 まず私たちは、「我・主体・主観」によって様々に認識・判断した存在に対して「名称」を付けています。

 皆さんの目の前にあるもの、鉛筆・ペン・パソコン・テレビ・本など何でもいいでしょう、それをその紙に書いて下さい。

 では、まずは鉛筆・ペンなどと書かれた文字のモノについてでありますが、第二章でも述べさせて頂きましたように、そのものには諸行無常・諸法無我なる中で固定した実体としての「我」は無いため、そのモノは常にあるものではありません。例えば、その鉛筆・ペンが百万年後にもありますかと問うと、特殊保存していない限りは、誰もがもう無いと答えることでありましょう。もちろん無常なる中、そのモノを構成している分子・原子・中性子・素粒子は因縁生起によって生滅変化を繰り返しているため、瞬間においてさえも刻々と無くなっていってしまっています。ですから、私たちが存在に対して名称を与えているのは、あくまでも変化しているモノについて私たちが仮に与えた名称なのであります。このことを唯識論では「仮名《けみょう》」と言います。書いたそのモノは、単に仮にそう名称しているにすぎないものであるため、本当のそのモノ、存在の対象について、実は言葉・文字では表すことができないのであります。ですから、書いた文字の存在対象は「無い」のでありますが、そのことが分からずに存在対象、我があるとして執着してしまうことを「遍計所執性《へんげしょしゅうしょう》」と言うわけであります。

 次に、「表と裏」をどちらか決めて下さいと言うと、ある人は書いた文字のある方が表、文字の無い方を裏として、ある人は、その逆としても分別することでありましょう。表裏の分別が生じ、または、文字のある方、無い方という有無の分別も生じます。

 本当は表も裏もどちらがどちらとは言え無いのですが、「我・主体・主観」によって、こちらが表、こちらが裏というように、それぞれの我によって勝手な分別が生じてしまいます。

 もちろん、表と裏を我によって分別したのは、単に虚妄で、本当はどちらがどちらとは言え無い、やはりただの一枚の紙であって、「分別した二なるもの」は、「二つで無い」一枚の紙で、つまり「而二不二」なのであります。

 また、表、裏と分別したとしても、実はその中間についても、もちろん無視することはできません。例えば、皆さんの手元にあるその一枚の紙では、表でも裏でもない一ミリメートルにも満たない「厚さ」の部分があります。このように本当のところ、二項対立・二元対立は極端に分別することはできず、必ずその間もあるわけであります。白と黒では間に灰色があるように、パッといきなり対立が分かれてあるのではなくて、二項対立・二元対立は、実は対立関係にあるものではなく、ただ縁起空の連続について、ただ仮に「我」によって、そのようになってしまっているだけなのであります。

 つまり、ただ連続している縁起空があるだけなのに、ある一点に「我」と「執着」が生じてしまうと、そこを基準として囚われて虚妄分別が始まり、これが私、それがあなたに始まって、これが表、その逆が裏、これが楽、ではその逆が苦、これが正、その逆が邪というようになってしまうのであります。

 このように極端な側には立たずに、分別してしまったことでも、その中間に立ってみて、今一度、妄想・虚妄で分別したものが、実は一つのものであることに気付いていけるようにしていけば良いと思います。そうすると、二項対立・二元対立は矛盾しているものではないと分かって苦しむことも無くなるでしょう。

 ただし、最終的には、その中間でさえも「空(縁起空)」ということで、中間ですらも無いのだということも理解できるようにしていかなければならないのであります。

・・第五章・下に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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2008年2月6日水曜日

四、唯識論について・下・2

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
四、唯識論について・中・2
四、唯識論について・下・1
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

四、唯識論について・下・2

前五識・・成所作智《(じょうしょさち》

 所作を成ずる智慧で、大中小の随煩悩に惑わされることが無くなり、心・口・意の三業が清浄に保たれるようになったこと。

意識・・妙観察智《みょうかんさっち》

 根本煩悩である貪・瞋・痴・慢・疑・悪見を滅し、この世のあらゆることに対しての虚妄分別が無くなり、実相のそのままを観じ察することができるようになったこと。

末那識・・平等性智《びょうどうしょうち》

自我に執着している自我意識、我執を無くし、我見・我痴・我慢・我愛の四つの根本煩悩を滅して、自他分別が無くなり、この世のあらゆるものを平等に識できるようになったこと。

阿頼耶識・・大円鏡智《だいえんきょうち》

 あらゆるもののあるがままの真理が、あるがままにそのままくっきりと鏡のように識に映るようになり、あらゆるものをそのままに識できるようになったこと。言葉ではもはや表現できない智慧の境地でもあります。

 もちろん、これらの智慧を得ていくためには、しっかりと仏法を学び、修行を一歩一歩進めて、全ての煩悩を滅していかなければなりません。共に頑張って、涅槃へ向けて精進努力して参りましょう。

 また、真言宗におきましては、第八識の次に第九識「阿摩羅識《あまらしき》」(如来蔵識《にょらいぞうしき》とも言われ、その智慧は法界体性智《ほっかいたいしょうち》とされている)、更には第十識もあるとして唯識論を展開する場合もあります。

 真言宗におきましては、それぞれの智慧について、如来様方で顕されてもいます。

五智如来《ごちにょらい》

大日如来《だいにちにょらい》・・法界体性智
阿しゅく如来《あしゅくにょらい》・・大円鏡智
宝生如来《ほうしょうにょらい》・・平等性智
阿弥陀如来《あみだにょらい》・・妙観察智
不空成就如来《ふくうじょうじゅにょらい》・・成所作智

 諸宗におきましても唯識論における解釈には諸説あります。唯識論の真なる理解につきましては、私もまだまだであり、今回はあくまでもほんの触りでの紹介の域でありまして、私も、皆様方それぞれも、確かな学びの進めが当然に必要であると考えておりますので、誠に宜しくお願い致します。

・・第五章・上に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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2008年2月5日火曜日

四、唯識論について・下・1

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
四、唯識論について・中・2
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

四、唯識論について・下・1

 そのための修行過程について唯識論では、五段階に分けられています。

第一段階・・思糧位《しりょうい》

仏法の真理、唯識論の学びを進めようと発起し、仏法を自分の向上に役立たせていこうとする段階。仏道の初歩の準備段階。

第二段階・・加行位《けぎょうい》

 仏法の真理、唯識論を更に学び進めて、完全に自分のものにしていきながら、また、学んだ理論に拠るだけでは無く、行為(八正道、六波羅蜜、慈・悲・喜・捨、善行・徳行の実践など)も伴わせていく段階。理論と実践を平行させて進めていく段階。

第三段階・・通達位《つうだつい》

仏法の真理、唯識論の真理を完全に自分のものとして理解したところに達した段階。自分自身、あらゆるものの空性(縁起空)の真実に気づき達した段階。ただし、これはまだ悟りのほんの入り口に過ぎないところであり、慢心を起こし、「我」が顔を出すと、元の木阿弥になることに気をつけなければならない段階とされています。正直、この第三段階からは、具体的に言葉ではなかなか十分に表せない境地でもあります。

第四段階・・修習位《しゅじゅうい》

 仏法の真理が、そのまま現身に修養した段階。もはや「我」が完全に顔を出すことが無くなった段階と言えるのではないかと考えます。

第五段階・・究竟位《くきょうい》

仏道修行の究極最終境地の段階。正直、もはや言葉では到底表すことができない段階と考えます。この境地を目指して、しっかりと精進努力して参りましょう。

 また、その具体的な修行方法につきましては、六波羅蜜《ろくはらみつ》としてまとめられているものがあります。

六波羅蜜

布施波羅蜜《ふせはらみつ》

 貪る心・執着(我執・愛執)の心・所有の心を無くしていくために、財物を施す財施《ざいせ》、悪感情・煩悩を静めて安心を与える法施《ほうせ》、仏法の真理を説いて修行を実践する無畏施《むいせ》を行なっていくこと。
 
持戒波羅蜜《じかいはらみつ》

 戒律をしっかりと守ること。心・口・意の三業を清浄に保つために定められた戒律を遵守することで、五戒律として、不殺生戒《ふせっしょうかい》(生き物をみだりに殺さないこと)・不偸盗戒《ふちゅうとうかい》(他人の物を盗まないこと)・不邪淫戒《ふじゃいんかい》(よこしまな男女関係・不倫をしないこと)・不妄語戒《ふもうごかい》(虚偽を語らないこと)・不飲酒戒《ふおんじゅかい》(お酒を飲まないこと)があり、更には、もう五つを加えて十戒律とする場合もあります。不説四衆過罪《ふせつししゅうかざい》(他人の過失や罪を言いふらしたりしないこと)・不自賛毀他戒《ふじさんきたかい》(自画自賛し、他人を見下したりしないこと)・不慳貪戒《ふけんどんかい》(自分の利を貪ったり、物惜しみをしないこと)・不瞋恚戒《ふしんにかい》(激しく怒らないこと)・不謗三宝戒《ふぼうさんぽうかい》(仏法僧の三宝を誹謗中傷しないこと)。

忍辱波羅蜜《にんにくはらみつ》

瞋恚《しんに》(激しい怒り)の心を出さないように、常に心を寛容にして平穏に保つために、仏道を歩む中で、例えどんなに嫌なつらいことがあっても耐え忍ぶこと。

精進波羅蜜《しょうじんはらみつ》

 なまけおこたる心を出さず、涅槃へ向けて一生懸命に修行に取り組むこと。

禅定波羅蜜《ぜんじょうはらみつ》

 坐禅や瞑想修行にて精神統一・精神安定を図ること。禅定の段階には諸説ありますが、基本としては、止(心を統一して止めること・三昧《ざんまい》とも言う)と観(無常・無我の真理をありのままに捉える)からなっています。

智慧波羅蜜《ちえはらみつ》
 
 智慧を開発していくこと。智慧は、真理を悟ったものにもたらされる心の働きのこと。真理の実相から全く揺らぐことがなくなった心の働き。智慧は、般若《はんにゃ》とも表されます。智慧は、既にもはや己のいかなる内面におけることも、己の外面におけるいかなることも、真理の実相の理解によって、常に涅槃寂静へと導くことができるように全てが調った、静かで落ち着いた心の働きであると考えます。
 
次に、唯識論においては、真理の理解と修行段階が進み、煩悩が無くなると、「識」が「智慧」に転じて現われてくるようになり、このことを転識得智《てんじきとくち》と言い、前五識・意識・末那識・阿頼耶識のそれぞれにおいて智慧への転換が示されます。

・・第四章・下・2に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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2008年2月4日月曜日

四、唯識論について・中・2

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
四、唯識論について・中・1
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

四、唯識論について・中・2

 その前に、唯識論においては、無分別が説かれるわけですが、ここで挙げられるのは、仏法の真理においての何が善か、何が不善かについて、唯識論において定義されている善についてであります。不善は煩悩による悪業となることで、本論では、わかりやすくするために、不善=悪として記述しております。

 ここで、善・悪は無分別だとして、早計に善悪関係ないとしてしまえば、もう仏法を学ぶ意味が全く無くなり、それは享楽主義・快楽主義、または悲観主義・虚無主義など極端な偏ったところに陥る可能性もありますので、中道からも外れてしまうため、非常に気をつけなければなりませんし、涅槃への道のりが遙か遠いものになってしまいます。

 実はここのところは、誠に注意しなければならないところなのであります。

 仏法の真理は、文字や教典では本当は表せないということなので、禅宗が特に重んじる不立文字《ふりゅうもんじ》・教外別伝《きょうげべつでん》・直指人心《じきしにんしん》ということなのでもあります。

 ですから仏教、本論においても扱っております唯識論における善・悪は、中道としての立場、何ら偏りの無い、何ら差別の無い、何ら囚われの無いところから、あくまでも苦しみ・迷いを無くすために便宜上、そのように分けているだけであり、もちろん私たちはしっかりと仏法の真理を学び、仏法を拠りどころとして、悪をなさず善を行なわなければなりません。

 また、このことに関わることは、「無分別の分別」として、第五章で扱っておりますので、そちらもご参照下さいませ。

十一善

信(縁起の理《ことわり》を理解して信じること・徳ある仏法僧の三宝を信じること・己に善を行なう力があることを信じること)・慚《ざん》(己の内なることの恥じについて反省すること)・愧《ぎ》(己の外なることの恥じについて反省すること)・無貧(むさぼらないこと)・無瞋(激しく怒らないこと)・無痴(仏法の真理を学び愚かさを無くすこと)・勤(善行につとめはげむこと)・安(安らかな心でいること)・不放逸(なまけないこと)・行捨(かたよらない・平等で素直な心でいること)・不害(害さないこと)。

 次に、私たちが苦しんでいる煩悩についてでありますが、大別すると「根本煩悩」・「小随煩悩」・「中随煩悩」・「大随煩悩」としてまとめられています。

根本煩悩

 まず、先に挙げさせて頂きました未那識における四つの煩悩である「我見・我痴・我慢・我愛」に、前五識・第六識における煩悩としての貪《とん》(むさぼり)・瞋《しん》(激しい怒り)・痴《ち》(愚かさ)・慢(高慢・傲慢)・疑(真理の理解を躊躇《ちゅうちょ》している。真理についての疑い)・悪見(真理に対して間違った見解・理解)。

 また、慢には、七つあるとして、詳しく述べていきますと、慢(自分より劣った者に対して、自分は優れていると慢心すること、自分と同等である者に対して、同等であると慢心すること)・過慢(自分と同等である者に対して、自分の方が優れていると思い高ぶり慢心し、自分より優れている者に対して、同等であるとあなどって慢心すること)・慢過慢(自分より優れている者に対して、自分の方が優れているとうぬぼれて慢心し、他を見下す慢心のこと)・我慢(自分に執着し、自分は一番だと自惚れる慢心のこと)・卑下《ひげ》慢(自分より優れている者に対して、自分は少ししか劣っていないと慢心すること)・増上《ぞうじょう》慢(自分はまだ悟りを得ていないのに、悟りを得たとおごりたかぶる慢心のこと)・邪慢(自分に徳がないのにも拘らず、あると思って、自分は偉いと誇る慢心のこと)。

 また、悪見についても、詳しくは五つあり、薩迦耶見《さつがやけん》(我見・我執・自己中心的なものの見方)、辺見(極端に固執したものの見方)、邪見(仏教の法理、特に因縁生起の法則などを否定するものの見方)、見取見(自分の見方が絶対的に正しいと執着したものの見方)、戒禁取見(仏法で定められた戒律を破り、間違った見解の戒律を正しいものとして固執したものの見方)。

小随煩悩

 忿《ふん》(いかりを出すこと)・恨(うらみ)・覆(自分の不利益なことを隠すこと)・悩(悶々《もんもん》と気に入らないことに悩むこと)・嫉《しつ》(嫉妬)・慳《けん》(物惜しみするケチなこと)・誑《おう》(自分の利益のために人をあざむくこと)・諂《てん》(自分の方に気を向けるためにだましへつらうこと)・害(害すること)・驕《きょう》(おごりたかぶること)。

中随煩悩

 無慚《むざん》(仏法に照らして自分の内なることにおける己の恥じについて反省することがないこと)・無愧《むぎ》(自分の外なることからにおける己の恥じについて反省することがないこと)。

大随煩悩

 掉挙《じょうこ》(心が昂ぶって平静さを失っていること)・昏沈《こんちん》(心が重く沈んでいること)・不信(真理を信じないこと)・懈怠《けたい》(おこたること)・放逸《ほういつ》(なまけること)・失念《しつねん》(大切なこと、真理についての気づきを忘れてしまうこと)・散乱(心がみだれて落ち着きがないこと)・不正知《ふしょうち》(真理を間違って知ること)。

 これらたくさん挙げました迷い苦しみの原因である煩悩を、仏法の真理の理解を行なっていきながら、しっかりと無くしていき、あるがままをあるがままに受け入れていく心、善行を自然に行なえる平安で清浄なる心を養い、もう煩悩に苦しむことの無い、安楽なる涅槃を目指して、日々精進努力をしていかなければなりません。

・・第四章・下・1に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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2008年2月3日日曜日

四、唯識論について・中・1

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について・上
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

四、唯識論について・中・1

 次に、これら三つの能変によって、では、この世の存在をどのように認識しているのか、ということについては、三性《さんじょう》として説明されます。
   
三性

遍計所執性《へんげしょしゅうしょう》・・存在におけるあまねく全ての表象について、虚妄分別したものの「我」に執着してしまうこと。または執着できるものだとして、勘違いしてしまっていること。

依他起性《えたきしょう》・・この世のすべての存在が、他の何かを縁(因縁生起)として、はじめて成立しているということ。存在の「空性」(縁起空)・「無自性」のこと。

円成実性《えんじょうじっしょう》・・依他起性をそのまま依他起性として正覚して(空性(縁起空)・無自性の正覚)、遍計所執性(虚妄分別)を離れること。

 「諸法無我」の法理によって、遍計所執性においては、「我・主体・主観」によって感受した、他のものに対しての認識・判断には、当然に固定した実体としての「我」は無いので、その存在は、「無自性・無存在」として(都無《とむ》・実無)、依他起性においては、存在について、ただ「空」(縁起空)として(仮有《けう》)、このことを理解した上で、では、この世の存在の真実(実有《じつう》)は何であるのかについて、「無自性・無存在」・「空」(縁起空)が、この世の存在の真実として、そのことを「円成実性《えんじょうじっしょう》」と表しています。円成実性は「真如《しんにょ》」とも言われます。

 さて、ここで少し補足でありますが、先に挙げました薫習は、特に四薫習に分けて説明されます。

無明薫習・・無始なる過去世からの無明の薫習のこと。真如に薫習して、その薫習によって妄心が生じること。

妄心薫習・・妄心がまた無明に薫習して不了《ふりょう》(不完全)の種子を増やすことになって、妄境界(輪廻する世界)に現われ出ること。

妄境界薫習・・妄心を薫習して、妄境界(輪廻する世界)・虚妄分別の世界において、またも悪業を生み出して、煩悩を抱えて苦しむこと。

浄法薫習・・真如薫習と妄心薫習の二つがあり、真如薫習は、迷い・苦の中で、何とか逃れたいと真如を求めて発心し、仏道を実践し、涅槃を目指して精進努力を始めること。また、この場合の妄心薫習とは、真如を求める妄心が、更に真如に薫習し、無明・煩悩を滅して、涅槃へと向かうように調っていくこと。

 また更には、薫習の条件として、「所薫の四義」(薫習される所について)と「薫能の四義」(薫習の働きについて)が説明されます。

所薫の四義・・堅住性(永続的に同時存在性を保持する性質)・無記性(善でも悪でもない無記の性質)・可薫性(薫習が可能であるという性質)・能所和合性(能薫と所薫とは一体和合しているという性質)

薫能の四義・・有生滅(生滅変化を有する働き)・有勝用(善・悪についての強い方向性をもっているという働き)・有増減(薫習に増減の余力があるという働き)・能所和合転(所薫と和合して転ずるという働き)

 次に、八識と八識のほかにおける一切の存在については、「五法事理」として大きく五つに分けて説明されています。その中で、無為法以外は「依他起性」に属し、無為法は「円成実性」に属しているとされます。

心法・・心が全ての諸法・存在の中心主体であるとして、前五識・意識・未那識・阿頼耶識の八識が属する。心の中心体として「八識心王」とも言われる。

心所法・・心法による識の働き・作用のこと。遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定《ふじょう》に分けられて、そこから更に細かく心所が分けられています。

色法《しきほう》・・心法・心所法から物質的なものとして識されたもののこと。

心不相応行法《しんふそうおうぎょうほう》・・心法・心所法・色法でないもののこと。

無為法《むいほう》・・前四法の実性のこと。現象の本質ともいうべき真如のこと。

 次に、私たちがしなければならない善行為について記しておきたいと思います。

・・第四章・中・2に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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2008年2月2日土曜日

四、唯識論について・上

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

四、唯識論について・上

 大乗仏教における認識体系論、または仏教の深層心理学論とも称される唯識論でありますが、もちろんその語の如く、この世はただ「識」別(作用がある)のみという意味であります。

 まず、その「識」の段階を基本的に八つに分けて考えます。

八識

前五識・・人間の感受・感覚としての五感、つまり眼・耳《に》・鼻・舌・身における眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(皮膚感覚・触覚など)。

意識・・自覚的意識のこと。前五識と合わせて六識とも言う。第六識。

末那識《まなしき》・・無意識の領域で、無意識ながらも自我に執着している自我意識のこと。末那識は、非善非悪の「無記《むき》」とされていますが、我に関する根本煩悩を抱えているために、障りを抱えて心を不浄にしてしまうものとして、「有覆無記」と表されます。第七識。

阿頼耶識《あらやしき》・・末那識の更に深層にある領域で、人間の根本・根底意識のこと。生命根源の「識」。第八識。阿頼耶識は、末那識と同様に「無記」なものですが、末那識のような障りは抱えていないため、区別されて「無覆無記」と言われます。なぜならば、阿頼耶識が善であれば、私たちは現行で悪業を行うことがないはずですし、逆に阿頼耶識が悪ならば、どんなに仏道に精進しても、涅槃に至れず、永久に煩悩を抱えて、苦しみ続けてしまうからであります。更には、阿頼耶識は善・悪の業の種子《しゅうじ》を受け入れる(薫習《くんじゅう》される)場所であるため、例えば阿頼耶識が悪であれば、善業の種子を受け入れなくなってしまい、いくら仏道を実践しても永久に煩悩を滅することができず、涅槃に至ることができなくなってしまうからでもあります。種子・薫習については、これからの内容の中で詳しく説明致します。

 そして、この第八識である阿頼耶識が、前五識、意識、末那識を生み出している根本として、自己とこの世の全ての存在について「識」している元のところとされています。

 更には、前五識、意識、末那識において「識」し、思考・想像・言行したものが、阿頼耶識に「種子《しゅうじ》」としてたくわえられ、その種子には二種類あり、名言《みょうごん》種子と業種子《ごっしゅうじ》があり、名言種子は、前五識・第六識・第七識において言葉を用いた概念・思考・想像によって薫習《くんじゅう》された種子のこと。善因善果・悪因悪果、無記《むき》因無記果(善でも悪でもない因果)を現行するため、因果が等しい流れであるので、このことを「等流習気《じっけ》」とも言います。

 業種子は、前五識・第六識・第七識・第八識の全てに影響を与える基となっている種子のことで、原因が善・悪であっても、阿頼耶識の中でたくわえられます。また、阿頼耶識においては、異なって熟されていくため、このことを「異熟習気《じっけ》」と表されます。

 また、種子には六つの条件があって、このことを「種子の六義」と言います。

種子の六義

刹那滅《せつなめつ》(刹那に生滅変化すること)・果倶有《かくう》(結果と同一に存在すること)・恒随転《ごうずいてん》(生滅が常に続くが性質はずっと保持していること)・性決定《しょうけつじょう》(善・悪・無記の因果性が決まること)・待衆縁《たいしゅうえん》(因縁によって現行すること)・引自乗《いんじか》(因果は同一の性質で引き継がれること)

 さて、種子が阿頼耶識にたくわえられていくことを「薫習《くんじゅう》」と言いますが、薫習とは、あたかも何かの香り(お香や香水など)が衣服に染み付くように、前五識、意識、末那識において「識」して思考・想像・言行したもの、更には思考・想像・言行を受けたことなどが、阿頼耶識にたくわえられるということであります。このことを「現行生種子《げんぎょうしょうしゅうじ》」と言います。

 そして、この阿頼耶識にたくわえられた色々な種子が、刹那滅しながら、また新たなる種子を生み出すことを「種子生種子《しゅうじしょうしゅうじ》」と言い、更には、種子が阿頼耶識から出て、意識、末那識・前五識に作用して外界の影響(因縁による影響)を受けて、また新たな種子が、阿頼耶識にそのまま薫習されるという繰り返しのことを「習気《じっけ》」と言い、更にまた、阿頼耶識における種子によって、この世における現象世界の事物が現れ出ることを「種子生現行《しゅうじしょうげんぎょう》」と言います。

 もちろん、この阿頼耶識でさえも、無常の例外ではなく、種子も刹那に生滅しつつ、薫習・習気され、異熟しています。その種子の集まりである阿頼耶識は、激流の如くに流れていると例えられています。

 更に、この阿頼耶識における種子の働きは、無始なる過去世からの輪廻、現世における現行、次の輪廻に深く影響しているとして説明されます。

 では、具体的に「識」によって作り出される、この世の現象世界の事物についての一連の働き、変化については、第一能変・第二能変・第三能変で示されます。

第一能変・・種子をたくわえる阿頼耶識において、あらゆる業(心《しん》・口《く》・意《い》の三業)の結果が、種子の様々な因縁によって、その結果が異なった形で熟し、新たな認識として生起して現行していくこと。このことを異熟《いじゅく》と言います。例えば、悪業を積み重ねて、その種子を阿頼耶識にたくわえても、その後に善業を重ねて、その善業の種子が阿頼耶識にたくわえられていけば、その因縁によっては、悪業による種子を浄化させて、先の悪業の結果も変わって熟していき、新たな認識の生起、現行をもたらすということです。この第一能変は、仏教における悪をなさず善を行ないなさいという善行奨励の理由として、輪廻についての説明でも理論的に補完されているところであると考えられます。また、先にも述べてありますように、阿頼耶識そのものは、善でも悪でもない「無記《むき》」なるものであります。

第二能変・・未那識における考え・思考のこと。思量《しりょう》とも言われる。この思量では、無意識においても常に自我意識をもたらし、自己執着(我執)して、特に四つの我についての根本煩悩にさいなまれている認識のこと。我見(自己は固定した実体としての存在があるとして、固執していること)、我痴(諸行無常・諸法無我などの仏法の真理を知らない愚かなこと)、我慢(自己について慢心していること)、我愛(自己に愛着していること)。もちろん、未那識は阿頼耶識によって強く影響を受けています。

第三能変・・前五識・第六意識における認識作用。了別《りょうべつ》と言う。眼・耳・鼻・舌・身・意によって、それぞれ対象である色・声・香・味・触・法を認識する眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識のこと。ただし、意識は、前五識とはやや異なり、前五識の情報を受けて、すべての事物(現在・過去・未来を含めて)について認識・判断するものとして区別されています。もちろん、阿頼耶識は、前五識・第六意識に大きく影響しています。

・・第四章・中に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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2008年2月1日金曜日

三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》

 「而二不二《ににふに》」とは、両部不二とも言われますが、「二つにして、二つではない(一つのもの)」という意味であります。普通に考えると逆のことを述べていますので、矛盾していて理解し難い言葉ですが、この意味につきまして、これから「一枚の紙」で説明していきたいと思います。

 まず、手元に用意して頂きました白紙の紙を、よくご覧下さい。

 では、皆さんにお聞きしますが、「どちらが表で、どちらが裏ですか」

 「・・・」

 そうです。白紙の紙では、表も裏も全く同じであり、どちらが表で、どちらが裏と決めることができないのであります。一枚の紙はたった一枚の紙でしかないのであり、当然にそれで一つなのです。

 ところが、その白紙の紙に表と裏を生み出してしまうと、なんとその一つのものに二面、両部、二つのものが現れるのであります。

 実は、このように私たちは、常に物事を両部に分けて認識・判断・理解するようにしています。いわゆる「分別《ふんべつ》の世界」の中で生きているということであります。 

 もちろん、この世において、私たちは何事にも理性・道徳・常識の分別が付かなければ、社会は大変なことになってしまいます。例えば、「これはやってよいこと、あれはやってはいけないこと」と分別していなかったとしたら、本能・感情が支配する世の中となり、無法地帯になってしまって、分別がある時と比べると、とんでもないことになるのは明白だからであります。

 社会生活を営む上では、当然に「分別」は大切で欠かせないものでありますが、これから述べていく仏教的な「分別」の考え方は、世間における分別の考えとは、全く別の次元の問題として扱います。

 ただ、世間における分別というものも、絶対的なものではなく、そういった分別にでさえも、私たちは囚われて執着してしまうと、悩み苦しむことがありますので、相当に気を付けて扱う必要はあります。

 では、仏教的な分別の話に入りますが、なぜ分別の世界が生まれるのかと言いますと、そこでまずは「我」が大きく関連しているわけであります。

 つまり、「我」とは、簡単に述べると「主体・主観」であります。そして、そこから「対象・客体・客観」が生じます。主客によって、二項対立、二元対立が色々と生じることになります。

 主体は「見るもの・知るもの」、客体は、「見られるもの・知られるもの」ですが、仏教的に述べますと、眼・耳・鼻・舌・身・意の感覚器官で感受したものを、想(表象・概念)、行(意志)、識(意識・認識)する側が主体で、感受される側、つまり対象が客体となります。「私とあなた」に始まって、「表と裏」・「有と無」・「明と暗」・「左と右」・「上と下」・「優と劣」・「男と女」・「勝と負」・「成功と失敗」・「理性と感情」・「愛と憎」・「生と死」・「楽と苦」「善と悪」・「平和と戦争」・「破壊と創造」・「○と不○(○には快・幸などの語が入る)」と多くの二項対立・二元対立を挙げることができます。

 そして、私たちは二項対立・二元対立するものを考えるとき、その対立を相反する矛盾するものとして扱い、悩み苦しみに陥ることになってしまうことが多々あります。

 このように、この世における表象を二項対立・二元対立のように、色々と分別して悩み苦しんでしまっていることを仏教的には「我」がもたらしてしまっている「虚妄分別《こもうふんべつ》」と呼んでいます。

 つまり、「無我」にも拘わらず、「虚妄分別」したものを実体ある「我」と捉えてしまい、そのために悩み煩ってしまうということであります。

 更に詳しく述べますと、「我・主体・主観」によって、感受した他のものに対しての認識・判断において、分別してこの世の表象を理解してしまい、そこに囚われて執着してしまうということであります。

 このようにして認識した存在について、仏教的な理解を進める上において、もっとも進んでいますのが、「唯識《ゆいしき》論」における「遍計所執性《へんげしょしゅうしょう》」・「依他起性《えたきしょう》」・「円成実性《えんじょうじっしょう》」の「三性」があります。ここで次に少し唯識論の私なりの解釈について簡単にまとめて記しておきたいと思います。

 もちろん、浅学非才、未熟なる理解にしか過ぎませんので、当然に間違いがあるものと思います。また説明している自分自身でさえも本当は何を書いているのか理解していないのではないかと思うところもあると考えますので、その旨、ご容赦賜りましたら幸いでございます。

 また、唯識論については、優れた専門書が多く出版されていますので、それぞれにおいて学びを進められる上で、必ずそれらからも考察、検証して頂きたいと存じます。あくまでも私の解釈は私なりに頑張っての紹介の域でしかありませんので、まずはその旨、ご了承頂きましたらと存じます。

・・第四章に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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