2008年1月31日木曜日

二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」




一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・下

 もちろん、なぜこの世における存在が、不安定なのかと言いますと、私は宇宙物理学の専門家ではありませんので、あまり詳しく述べることはできませんが、宇宙の始まりに起因していると言えます。

 宇宙の始まりでは、無の(量子論的)空間にゆらぎが生じ、無の空間のバランスが崩れ、物質と反物質の対発生と対消滅にアンバランスさが生じたことによって、ビッグバンが起り、宇宙が始まったと現在のところ言われています。

 本来は、物質と反物質の対発生と対消滅にアンバランスさが無ければ、今日の宇宙にあるような様々な物質も現象も、実は何もなかったのであります。その宇宙誕生のアンバランスさから、今でも、分子・原子・中性子・素粒子の単位でもめまぐるしく引っ付いたり離れたり、エネルギーとなって消滅したりしている中にあるのであります。しかし、ここであまりそのことを扱いますと話が相当に脱線してしまいますので、最終的には宇宙物理学・量子物理学による更なる解明を待ってみましょう。

 とにかく、私たちの苦しみの原因は、あらゆる現象・存在の無常という不安定さによって、何とかしてでも、それを安定させよう、変化を止めよう、永遠なものにしよう、永久に変わらないものにしようとして、渇愛・執着してしまうところに生じているのであります。

 そして、諸行無常・諸法無我・一切皆苦の法理をしっかりと理解することによって、迷い苦しみの原因となる煩悩を滅して、安らかな悟りの境地を得ることを「涅槃寂静《ねはんじゃくじょう》」と表し、これら四つの法理を仏教の基本法理として「四法印《しほういん》」と言うのであります。

 さて、話を「紙」に戻しましょう。今そこにある「紙」について、色や形状が変わったりすることが、それぞれの眼に見えようが見えまいが、分かろうが分かりえないかは全く関係なく、実は瞬間、瞬間に因縁生起によって変化しています。

 そのために、「これがこの紙」といくらその紙の「我」を探しても本当は、どこにも見当たらないのであります。その「紙」についての我執に囚われてしまうと、僅かな変化でさえも受け入れず、認めなくなってしまうことになり、不満、苦しみを抱えてしまうのであります。そのため、この「紙」と呼んでいるものは、永遠なるもの、永久なるものではない、常に変化しているものであるのだと、しっかりと理解しておけば、多少変わっていっても、滅していっても全く妄想、煩悩、苦しみは生じないのであります。もちろん、全ての存在、己自身でさえにおいても、このことは同様なのであります。

 さて、まずは、この「一枚の紙」で仏教の四法印について、私なりに簡単に説明させて頂きました。四法印、更に苦しみを無くす上で大切な教説である「四聖諦《しせいたい》」(苦諦・集《じっ》諦・滅諦・道諦)、八正道の詳しい説明につきましては、施本「佛の道」をご参照頂ければ幸いでございます。

・・第三章に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
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2008年1月30日水曜日

二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」


一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・中

 あくまでも私たちが「紙」と呼称しているものは、単に「一過性の現象のこと」を指して言っているだけのことで、分子・原子・中性子・素粒子の単位では、瞬間、瞬間に生滅変化しているものであります。

 それは、もちろん、仏教用語で言うところの因縁生起《いんねんしょうき》(因縁・縁起)、因(直接原因)と縁(間接原因・条件)の二つの原因が、それぞれ関わり合って構成されているものであり、この因縁生起に従って生滅変化を繰り返し続けていることを、仏教の中でも特に大切な法理である「諸行無常《しょぎょうむじょう》」と言うのであります。

 読者の皆様方が、現在見ておられるこの施本の紙、ご用意して頂きました白紙の紙も、瞬間、瞬間で分子・原子・中性子・素粒子の単位で生滅変化を繰り返しているものであり、私たちは仮に、今のその存在における現象を「紙」と単に呼称しているに過ぎず、もっと仏教的に厳密に言えば、変化し続けているものには瞬間でさえも、そのものが「ある」とは言えないのであり、そのことを仏教では「諸法無我《しょほうむが》」の法理と言うわけであります。

 このように、私たちが言葉で普段使っている存在・現象への「名称」というものは、ほんの間、ただ私たちが仮に名付けているだけのものに過ぎないのであります。まずはこのことをしっかりと理解しておかなければなりません。

 前回施本「佛の道」では、私たち人間存在のことについて、色《しき》・受・想・行・識の五蘊《ごうん》で仮に和合しているものであるとして、その五蘊のいずれもが瞬間に変化し続けているため、どれが自分で、どれが自分のものだとすることも不可能であり、固定した実体としての「我」が成り立たないことを述べさせて頂きました。

 もちろん、全て私たちが呼称を与えている存在も、実は固定した実体としての「我」は同様に「無い」のであります。

 この「諸行無常」・「諸法無我」を理解していないと、私たちはその名称のものを「あるもの」として「我」を妄想してしまい、そこにほしいという渇愛《かつあい》、もっとほしいという執着が生じてしまって、そのものが少しでも変化したり、無くなり、滅したりすると、そのことを受け入れず、認めずに、それがそのまま迷い、苦しみになってしまうわけであります。

 このようにあらゆる存在、みずからの存在にでさえも「我」を妄想してしまって、「我執」を抱えてしまうことが、私たちの苦しみの原因であります。一切の存在は不安定であるために、「我執」、「妄想」によって「不満」が生じてしまっています。「妄執」・「我執」・「愛執」など、色々な執着をもたらす妄想のことを総称して「煩悩《ぼんのう》」と言いますが、このようにこの世におけるあらゆる存在・現象が不安定なことについて、諸行無常・諸法無我の真理を理解できないままに、悩み煩ってしまい、苦しむことを仏教では「一切皆苦《いっさいかいく》」という法理として表すのであります。

・・第二章、次に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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2008年1月29日火曜日

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」・第二章・上

施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」


一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解・上

 さて、まず宜しければ、「一枚の紙」を読者の皆様方それぞれの手元にご用意下さい。それから本論は始まります。

 白紙の普通のコピー用紙でも構いませんし、大きさ、形状は特に問いません。

 ご用意できましたでしょうか。

 それではまず、私たちが「紙」と呼んでいるものにつきまして考えてみましょう。「紙」とは、字を書くために、筆記媒体として私たち人間が作り出して開発されたものであります。当然に自然界においては存在していません。

 紙の起源は、古代エジプトまでさかのぼり、「死者の書」が記されていることで有名であるカヤツリグサ科の植物の名である「パピルス」であります。英語で紙を意味する「paper」の語源は、この「papyrus」に由来しています。

 パピルスへの筆記は、主に葦《あし》のペンが用いられ、青銅製のペンも使われることもありました。

 パピルスは、手紙や簡単な文書の筆記には、大いに役立ちましたが、強度上の問題などがあり、多くの文章を記すには限界がありました。特に膨大な文章量を扱う仏典・聖書などを記す場合には、大変不向きであり、紀元前百五十年頃に中国で発明されたとされている今日私たちが普通に「紙」と呼んでいるものが、その後、世界中で利用されるに至ります。実質はこの中国での発明の「紙」が起源であるとも言えるでしょう。

 この「紙」の発明までは、古代エジプトの「パピルス」と同様に、古代メソポタミアの「粘土板」やインドの「椰子《やし》の葉」、中国・韓国・日本の「木簡《もっかん》」・「竹簡《ちくかん》」・「絹布《けんぷ》」などがありましたが、いずれも大量の筆記、長期保存、運輸には不向きでありました。

 中国での「紙」の誕生以降、色々と便利に使うために改良が繰り返される中、一四五○年頃、ヨーロッパにおいてグーテンベルグが活版印刷を発明したことで、印刷物が大量に造られるようになり、紙の需要は一気に増大、製紙技術も更に進歩し、現代私たちが使っている「紙」へと進化していったのであります。

 「紙」の原料は、植物繊維のセルロースが主成分で、セルロース間の水素結合によって構成されています。

 さて、「紙」について、主に筆記媒体として使われるものと述べて参りましたが、それを私たちは、段ボールなどのように箱として使ったり、ティッシュペーパー、トイレットペーパーとして使ったり、包装や折り紙として使われるなど、用途も多様になりました。現代社会においては、私たちの生活必需品として、「紙」は大いに役立っています。

 更には、私たちが普段「紙」と呼んでいるのは、もう少し詳しく述べると「セルロースの水素結合体」と先に述べましたように、セルロースは、元素記号、炭素(C)と水素(H)と酸素(O)の化学反応で構成されています。水素結合は水によってすぐに切れてしまう性質のため、紙は水に弱く、また燃やすとあっという間に燃えてしまうものでもあります。

 元が「紙」であったとしても、水に溶けてしまったものや、燃えてしまったものは、もう「紙」と私たちは呼びません。あくまでも「紙」とは、一時の化学反応体、先に挙げさせて頂きました用途で使う場合の時に「紙」と呼称しているだけのことであり、化学反応によって変化したり、また厳密に言うと分子・原子・中性子・素粒子の単位でもめまぐるしくダイナミズム(躍動)、生滅変化を繰り返しているものであります。

 私たちが普通に「紙」と呼称するものについて、「では、あと一万年後、百万年後にもそれは存在していると思いますか」と質問すると、ほとんどの人は、「もう無くなっている」とお答えになるでしょう。書いた内容も当然に残っていないと想像できることでしょう。もちろん特殊保存するなどすれば別ですが、普通の自然界の中において、そのままにしておけば、徐々に色は変わり、化学変化して腐食していき、また水に濡れたり、燃えたりすると、脆くも無くなってしまうものであります。

 しかし、それは何も百年後だから、一千年後だから急に起こる変化ではありません。実は瞬間、瞬間においてさえも、既に分子・原子・中性子・素粒子の単位でもめまぐるしくダイナミズム(躍動)、生滅変化を繰り返しているため、これが「紙」とピタッと止めて「紙」とすることは、実は瞬間でさえもできず、永遠にあるものでは無く、永久に変わらないものでもありません。

・・第二章、次に続く・・

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

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2008年1月28日月曜日

次回施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」

施本・「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

次回施本、概要・内容がほぼ固まりました。また随時全文公開して参ります。

題・施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」


一、はじめに
二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解
三、一枚の紙から・①而二不二《ににふに》
四、唯識論について
五、一枚の紙から・②而二不二《ににふに》
六、一枚の半紙から・補足余談
七、悩み・苦しみを超えて
八、最後に

一、はじめに

 前回は、この浅学非才、未熟者の身ながらも、仏教の学びに関しまして私なりにまとめさせて頂きました施本「佛の道」を平成十九年十二月に刊行させて頂きました。

 この度は、仏教の更なる理解のために、前作「佛の道」から更に一歩進めて、この施本を執筆させて頂きました。

 たった一枚の紙から説く仏教、前作とは少し違った視点から仏法の真理へのアプローチができたのではないだろうかと考えております。

 ただし、できましたら本論を読み進めて頂く前に、施本「佛の道」をまずはお読み下さいますことをお願い申し上げます。往生院六萬寺のホームページの方でも全文公開させて頂いておりますので、まだの方はそちらでもご確認、お読み下さいませ。

 この施本が、これから読者の皆様方が仏教の学びを進められる上において、少しなりともご参考になるところがございましたら、誠に幸いでございます。

 また、仏教の真理につきまして、ここにおいて私が述べさせて頂きましたことが、絶対的に正しいとは私自身も当然に思ってはおりません。

 なぜならば、人間の認識・判断・理解におきましては、その人の経験・学習・知識からの考え方・思想・主義・主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意《しい》的要素が相当に入ってしまうことが多々あるため、当然に、まだまだ私自身においてもしかりであります。内容に関しまして、必ずご批判、ご反論もあることと存じます。ご批判、ご反論もしっかりと受けとめて、確かなる仏教の理解へ向けて、今後更に歩みを進めていければと考えております。

 また、私自身、本論における解釈・解説につきまして、ここに書かせて頂きました内容に執着するつもりも毛頭ございません。間違いは間違い、誤りは誤りとして認めるべきところが出てくれば、それはしっかりと受け入れて認めて、修正・変更して参りたいと考えています。

 そのため、本論を読み進めて頂きます上におきましては、あくまでも内容は、まだまだ一僧侶の未熟なる理解にしか過ぎず、仏教の真理につきましては、読者の皆様方の精進努力による真理探究、見極めも当然に大切であると考えております。

 このことをまずはご理解賜りまして、これからも共に仏教の学びを進めさせて頂ければ幸いでございます。

 生きとし生けるものたちが、幸せでありますように。三界における全てのものたちが、苦しみから解脱し、安楽なる涅槃へと至れますように。

川口 英俊 合掌

〔本文、不許複製・禁無断転載〕

著作権は川口英俊に帰属しています。
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2008年1月26日土曜日

一円相

「一円相」

次回施本の内容にも非常に関係している「一円相」の境地・・誠に難しいですね。

施本・「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

次回の施本を執筆しておりますが、改めて「仏教の基本法理の理解」、「唯識論について」の紹介、更には「而二不二について」の考察、そして「悩み・苦しみを超えて」としてまとめております。前作とは少し違った視点から仏法について、この未熟・浅学非才の身ながらアプローチしてみたいと考えております。とにかく焦らずに一つ一つであります。。

2008年1月25日金曜日

次回の施本

施本・「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

次回の施本を執筆しておりますが、改めて「仏教の基本法理の理解」、「唯識論について」の紹介、更には「而二不二について」の考察、そして「悩み・苦しみ を超えて」としてまとめております。前作とは少し違った視点から仏法について、この未熟・浅学非才の身ながらアプローチしてみたいと考えております。とに かく焦らずに一つ一つであります。。

2008年1月23日水曜日

日本テーラワーダ仏教協会さん

施本・「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

日本テーラワーダ仏教協会さんの機関誌「パーティパダー」の平成20年2月号におけます編集後記の最後のところにおきまして、誠に恐縮ながらも未熟者、浅学 非才ながら発行させて頂きました施本「佛の道」をご紹介賜りました。誠に感謝申し上げます。なお一層に仏法の学びに精進努力して参りたいと考えておりま す。

実は、今回の発行は誠に勇気のいるものでありました・・

当山で出させて頂いております「往生院だより」の平成18年11月において、日本テーラワーダ仏教協会さんをご紹介させていただいた折には、関係者の一部の方からでありますが、少しお叱り、批判を頂いたことがございます・・

往生院だより・平成18年11月・「初期仏教を学ぶ」
http://oujyouin.com/tayori1811.htm

ただ仏法の真なる学びのためには、宗旨宗派にこだわらずに学びを進めさせて頂きますことが大切であるとして、この度はその学びの道中の一里塚として施本をまとめさせて頂きました次第でございます・・もちろん、このことでのお叱り、批判も覚悟の上でありました・・

お読みになられました方には、もしかすると違和感を覚える方もいらっしゃるやもしれませんが、それは私の未熟さ、浅学非才さに原因があることであり、まだまだであると深く反省致しております・・

とにかくまだまだであります・・

日本テーラワーダ仏教協会さんホームページ
http://www.j-theravada.net/

これからも真なる仏法の理解へ向けて、様々に学びを進めさせて頂ければと考えております。鋭意精進努力して参ります。誠に宜しくお願い申し上げます。

生きとし生けるものたちが、幸せでありますように。三界における全てのものたちが苦しみから解脱し、安楽なる涅槃へと至れますように。

川口 英俊 拝

2008年1月21日月曜日

唯識論

施本・「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

さ て、いよいよ次回施本を書き始めましたが、改めて唯識論から学びの取り組みを進めていきますと、今まで知らなかった単語がたくさん出てきます。「薫習(く んじゅう)」や「習気(じっけ)」、「異熟(いじゅく)」・・などなど。理解するのに頭をフル回転させながら進めています。難しい・・

とにかく下記テーマを織り込んで、大乗仏教・唯識論から次回施本をまとめたいと考えております。何とか二月中までにはと考えております。また随時、内容を公開して参りたいと考えております。

これからの考察テーマのまとめ途中経過、「輪廻と無我との整合性」・「輪廻・無我と唯識論との整合性」・「空論・縁起空の突き詰め」、「絶対矛盾的自己同一」・「即非の論理」、「而二不二」・「維摩経・不二法門」。

2008年1月20日日曜日

次回施本

施本・「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

施 本「佛の道」は、主に日本テーラワーダ仏教協会さん、つまり初期仏教について、改めて自分なりに学びを進めたまとめを浅学非才、未熟者ながら書き記させて 頂いたものでありますが、現在、更に大乗仏教の基本となる唯識論を学ぶに至り、意外にもある程度すんなりと受け入れが進んでいます。これまで大乗仏教を学 んできたつもりでありましたが、実は何も身になっていなかったのだと改めて痛感した次第でもあります。その点で、いったん白紙にして初期仏教から学んだこ とが功を奏しているように思います。もし、一から学びを進めようという気にならなかったら、おそらく難解な唯識論を前にして、取り組む前からもう既に諦め ていたことでありましょう・・

とにかく下記テーマを織り込んで、大乗仏教・唯識論から次回施本をまとめたいと考えております。何とか二月中までにはと考えております。また随時、内容を公開して参りたいと考えております。

これからの考察テーマのまとめ途中経過、「輪廻と無我との整合性」・「輪廻・無我と唯識論との整合性」・「空論・縁起空の突き詰め」、「絶対矛盾的自己同一」・「即非の論理」、「而二不二」・「維摩経・不二法門」。

2008年1月19日土曜日

唯識論

施本・「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

下記考察テーマに取り組む前に「唯識論」についての考察を始めることにしました。段階的にもまずは「唯識論」の概要をしっかりと理解してからと考えております。

これからの考察テーマのまとめ途中経過、「輪廻と無我との整合性」・「輪廻・無我と唯識論との整合性」・「空論・縁起空の突き詰め」、「絶対矛盾的自己同一」・「即非の論理」、「而二不二」・「維摩経・不二法門」。

2008年1月18日金曜日

無分別の分別

施本・「佛の道」・全文
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「諸 法無我」についての思慮を続けておりますが、「我」と「無我」を分けて思慮するわけですが、しかし、それを分けている自分という「我」があるのに気付くわ けであります・・そして、またその「我」を「無我」へとしていこうとするのですが、実はまた「我」があるのに気付く・・実はキリが無くループなのでありま す・・いわゆる「無分別の分別」なのであります・・これでは・・はて?・・うむ・・

これからの考察テーマのまとめ途中経過、「輪廻と無我との整合性」・「輪廻・無我と唯識論との整合性」・「空論・縁起空の突き詰め」、「絶対矛盾的自己同一」・「即非の論理」、「而二不二」・「維摩経・不二法門」。

2008年1月16日水曜日

諸法無我の補足

施本・「佛の道」・全文
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諸法無我の補足

さて、少し書道修練で思い出しますが、教室に通い始めた頃、普通にコンビニでも市販されている一枚一円ほどの半紙で練習していた時に、先生から、その紙では裏のザラザラの部分で書きなさいと指導を受けて、当初はかなりそのことに抵抗がありました。

な ぜならこれまでは、半紙はツルツルの部分が表で、そこに書くことを当たり前と考えていたからであります。つまり、半紙に書くのは、ツルツルの部分が表でザ ラザラの部分は裏ということが当然で正しいと思い込んでいたからであります。しかし、先生は、その半紙では、確かにツルツルの表で書くことで、綺麗に見せ ることができるが、筆が滑りやすいことと、文字を見るだけでは正確な筆遣いの技量がなかなか推し量れないということで、練習、正確な指導のためにも裏のザ ラザラの部分で書きなさいという趣旨でそう言われたのであります。

しばらくして、練習・清書用共に、一枚五円ほどする半紙を常用すること になりましたが、その時にようやく先の半紙でザラザラの裏で書いていたことの抵抗が無くなったのであります。その半紙の表はまさに先の半紙の裏と同じよう な感じでの書き具合となり、また、作品として条幅などに書く半切なども同様の書き具合だったからであります。先生の指導は理にかなったことだったのかと気 づいたのであります。

さて、この話題で何が言いたいのかといいますと、「正しい」という思い込みであります。表と裏も単に思い込みで、こちらが表で正しい、こちらが裏で正しいとしてしまって固執していれば、上達が少し遅れたかもしれないということです。

このように、普段私たちが「正しい」としていることが、施本「佛の道」の中でも何度も出て参りましたフレーズ「主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素」が大きく関係してしまっているということであります。

つ まり、仏教的に説明しますと、「諸法無我」において、諸行無常なる中、固定した実体としての「我」はどこにも無いのに、我に囚われてしまって「我執」して しまえば、主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素が顔を出して、表裏も勝手に世間の常識、自分の主観・偏見・都合でこちらが表で正 しい、こちらが裏で正しいとして執着し、妄執して迷い苦しんでしまうということであります。本当はたった一枚の紙について、表も裏も私たちが勝手に恣意的 に判断しているだけということでもあります。そういった妄想はしっかりと捨てなければならないということでもあります。

こういう何気ない日常のことでも、「諸法無我」の理解が一つできるのでもありますね。

2008年1月15日火曜日

「維摩の一黙、雷の如し」

施本・「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

「無明の闇の思慮」
http://www.hide.vc/hotokenomichikanren1.html

「而 二不二」・「維摩経・不二法門」・・正直ここに考察が及ぶと二項対立・二元論など、もはや分別の世界を超えて、「維摩の一黙、雷の如し」ではないですが、 言葉・名称・文章・形態などでは表現できない境地でもあります・・限界ギリギリまで何とか頑張って参りたいと考えております。

これからの考察題名まとめ途中経過は、「輪廻と無我との整合性」・「輪廻・無我と唯識論との整合性」・「空論・縁起空の突き詰め」、「絶対矛盾的自己同一」・「即非の論理」、「而二不二」・「維摩経・不二法門」。

2008年1月14日月曜日

不二法門

施本・「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

「無明の闇の思慮」
http://www.hide.vc/hotokenomichikanren1.html

こ れから更に仏法の学びを進めていく上で、「輪廻と無我との整合性」・「輪廻・無我と唯識論との整合性」・「空論の突き詰め」と、哲学的にも「絶対矛盾的自 己同一」・「即非の論理」、更には、「而二不二」・「維摩経・不二法門」についてもしっかりと考察して参りたいと考えております。

維摩 経、主人公は維摩居士(架空とされていますが)で、その維摩居士を中心として、お釈迦様の十大弟子、菩薩との仏法論議を記したお経であります。特に「不二 法門」の問答における「維摩の一黙、雷の如し」と文殊菩薩が称した場面は有名であります。なんとも不思議な心地となるお経でありますね。。

とにかく一歩一歩であります。。

2008年1月13日日曜日

無明の闇の思慮

施本「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

現在、煩悩の根源である無明の闇についての思慮を深めております。

その前に、一体何に自分はずっと悩み苦しんでいたのか・・それは様々な現実世界が抱えている矛盾だとしてまとめることができると考えています。

それは、主体・客体、主観・客観、左右・表裏・有無・明暗・男女・苦楽・心身・生死・善悪・正誤・優劣・愛憎、理性と感情、戦争と平和、犯罪と治安、環境破壊と自然保護、在家と出家・・と様々な二項対立・二元論が抱える矛盾に常に悩み苦しみを抱えて過ごしていると・・

しかし、諸法無我(非我)の真理の真実なる理解ができれば、二項対立・二元論の抱える矛盾は、実は主体・主観・我による偏見・独り善がり・自己都合・自己 満足などの恣意的要素がもたらした単なる妄想にしか過ぎず、諸法無我(非我)の理解により主体・主観・我が完全に無くなることで、自ずと矛盾は全く矛盾で は無くなり、二項対立・二元論を扱う理由も意味も無くなり、ただ「縁起空」があるのみというところに落ち着くのだと現在考えております。

果たしてそれが、いわゆる「絶対矛盾的自己同一」、「即非の論理」・・「煩悩即菩提」、「不生不滅」、「而二不二」と言われるものであるのかどうか・・恐れ多くてこれは誠にまだまだ思慮しなければなりませんが・・

とにかく、縁起空・無執着・・己が死んだ後も、人類が滅んだ後も、地球が滅した後も、ただ縁起が、ただあるのみ・・

我が顔を出すと、二項対立・二元論の抱える矛盾にもがき苦しみ、妄想を抱える中、死ぬのは嫌だ、人類の滅亡は嫌だ、地球が無くなるのは嫌だ、宇宙が無くな るのは嫌だと執着はいつまでも続き、苦しみと迷い、煩悩の渦の中、無明の闇に覆われて何劫も彷徨い続けることになってしまう・・

無明・・阿頼耶識・業の種子を打ち破るには・・

一説では三大阿僧祇劫も彷徨い続けることになる阿頼耶識・無明の闇を本当に打ち破るのは並大抵なことではありませんが、ほんのほんの僅かでも打ち破り、ま たあらゆる三界のものたちの無明の闇も打ち破ることの気づきができるような、そんな精進努力ができていければ・・もちろんこの浅学非才の未熟者では大海の 一滴にすらならないかもしれませんが・・

とにかく一歩一歩、仏法の思慮考察・実践を行なっていければと考えております。

2008年1月12日土曜日

絶対矛盾的自己同一

施本「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

今後、輪廻と無我との整合性、輪廻・無我と唯識論との整合性、更に空論の突き詰めと学問的に取り組みを進める上で、哲学的にも難解である西田幾多郎氏の哲学大成である「絶対矛盾的自己同一」の真なる理解も避けて通ることはできないものと考えております。とにかく一歩一歩進めて参りたいと考えております。

絶対矛盾的自己同一
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html

2008年1月10日木曜日

阿頼耶識(あらやしき)

施本「佛の道」・全文
http://www.hide.vc/hotokenomichi.html

この施本内容に対しての執着は平成20年1月8日に離しました。そして、更なる展開と致しまして、唯識論の取り組みを進めることと致します。特に阿頼耶識 (あらやしき)・・最深層心理のことを思慮するに「無明」=「阿頼耶識」と知見するにほぼ間違いないのではないかと現在考えております。輪廻するのはもち ろん我ではなく、阿頼耶識というのが大乗仏教の通説でありますが、「無明」=「阿頼耶識」とすることによって、十二縁起、苦・煩悩の根源、輪廻の元として の「無明」を考えて妥当ではないかと思われます。そして、「無明」を打ち破ることで、「阿頼耶識」も打ち破られ、再び迷い・苦の輪廻に戻ることは無いとす ることで、今回の施本の補足になるとも考えております。とにかく今回の施本ではあえて触れなかった輪廻と無我との整合性、輪廻・無我と唯識論との整合性、 更に空論の突き詰めも含めて、まだまだ進めなければならないことが多くありますが、とにかく焦らずに一歩一歩と考えております。

2008年1月9日水曜日

施本「佛の道」、今後の展開

施本「佛の道」、既に内容についての執着を捨てて、再検討を始めました。その中でも特に今回はあまり深く触れなかった「無我」と「輪廻」の関係、また「無我」・「輪廻」と「唯識論」との関係、「空論」の更なる考察などについても今後じっくりと思慮して参りたいと考えております。

2008年1月7日月曜日

施本「佛の道」・第十九章・第二十章

施本「佛の道」、自身、内容についての執着は今日までであります。更に仏法の真なる理解へ向けて精進努力を行って参ります。

施本「佛の道」・第十九章 四弘誓願

 四弘誓願《しぐせいがん》とは、仏法僧の三宝に帰依したる者の四つの誓いを表すもので、主に勤行・法要において最後に読経し、仏道を成就することを誓願します。
 
衆生無辺誓願度《しゅじょうむへんせいがんど》・・あらゆる全ての生きとし生けるものたちの苦しみをあまねく無くすという誓願。

煩悩無尽誓願断《ぼんのうむじんせいがんだん》・・苦しみの原因である煩悩は、尽きないほどに非常に数多くあるが、必ず全ての煩悩を断って苦しみを無くすという誓願。

法門無量誓願学《ほうもんむりょうせいがんがく》・・仏法の教えは実に膨大であるが、必ず全てを学ぶという誓願。

仏道無上誓願成《ぶつどうむじょうせいがんじょう》・・仏の道は苦しみを無くす上で、この上ないものであり、必ずその道を成就させるという誓願。

 長く厳しく非常に困難な仏の道を歩む者たちは、時に挫折し、失敗し、煩悩に負けて、過ちや罪を犯すことがあっても、決して仏の道を歩むことを止めず、たとえ道を逸れてもまた戻り、道を外れず、諦めずに精進努力していくことが大切となります。頑張っていきましょう。

施本「佛の道」・第二十章 最後に

 この度は、誠に未熟で浅学非才の身でありながら、僭越にも、仏法につきまして現在における私なりの解釈をまとめさせて頂きました。 

 もちろん、まだまだ至らない点も多々あるものと思われますので、その点、ご容赦の程賜りますればと存じます。少しなりとも皆様方にとって、仏法のご理解、学びを進めるお役に立つことができたとしましたら、誠に幸いでございます。

 また、今後、この本の内容・文章に関しまして、誤字脱字の訂正、追記補充、修正・変更、削除などが少なからずも出てくるものと考えております。更には、これからの自身における仏教の学びの進み具合におきまして、解釈上の修正・変更も考えられます。

 これらのことを考慮し、発行後しばらくしまして、ホームページ上にて、全ての文章を公開させて頂いた上で、随時、修正・変更などをお示しさせて頂きますので、そちらの方も今後、機会がございましたら、ご確認を頂きますように宜しくお願い申し上げます。

 往生院六萬寺ホームページ内(URL www.oujyouin.com/)か、もしくは本の題名と私の名前で検索して頂ければ、そのページをご覧になれるものと思います。

 この本の初版は、施本としまして著者・川口英俊の自費出版により発行させて頂きました。ご入用の方は、往生院六萬寺までご連絡下さい。数に余裕がありましたら、ご送付させて頂きます。

 また、増刷、次回刊行へ向けまして、施本にご賛同ご協力頂けます方のご支援を「施本布施」として、郵便局内にある「払込取扱票」をご利用下さいまして、ご送金賜りますれば、誠に幸いでございます。
 
往生院六萬寺
郵便振替番号 00910-3-330569
※必ず「施本布施」と通信欄にお書き下さい。

 最後になりましたが、この本の刊行に際しまして、ご協力を賜りました方々に心から感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
 
 生きとし生けるものたちが、幸せでありますように。三界における全てのものたちが苦しみから解脱し、安楽なる涅槃へと至れますように。

平成十九年十一月二十五日

川口 英俊 合掌


 著者プロフィール

 川口 英俊(かわぐち えいしゅん)
 昭和五十一年 東大阪生まれ
 臨済宗妙心寺派・禅専門道場で修行
 岩瀧山 往生院六萬寺 副住職
 URL www.oujyouin.com/
 他、参照 URL www.hide.vc/

施本「佛の道」・各章
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著作権は川口英俊に帰属しています。
Copyright (C) 2007 Hidetoshi Kawaguchi, All Rights Reserved.

2008年1月6日日曜日

施本「佛の道」・第十八章 無記

施本「佛の道」・第十八章 無記

 無記《むき》とは、判断をしないこと、答えを出さないことであります。

 時にお釈迦様は、弟子たちから色々と出される質問の中で、特に形而上学的な問題については判断を示さず、答えを出さずに沈黙を守ることで、仏教の実践から外れてしまう無用な論争の弊害を避けられることがありました。
 
 特に十無記として、

 一、世界は常住であるのか? 
 二、世界は非常住であるのか?
 三、世界は有限であるのか?
 四、世界は無限であるのか?
 五、霊魂と肉体は同一のものか?
 六、霊魂と肉体は別々のものか?
 七、如来は死後存在するのか?
 八、如来は死後存在しないのか?
 九、如来は死後存在しつつ非存在であるのか?
 十、如来は死後存在するものでもなく非存在でもないのか?

 があります。これらの問いには、「そう」、「そうでない」の二元論でも、また「そうでもあって、そうでもない」、「そうでもなく、そうでもないものでも ない」を加えた四元論でも答えることが不可能であり、これらの問いは、現実的に実証できない空想的独断のものでしかなく、仏道の実践において何の役にも立 たない問いであるとして、お釈迦様は回答を退けられたのであります。

 このことは、よく「毒矢の例え」をもって取り上げられます。

 ある人が毒矢に射られたとして、すぐに矢を引き抜いて治療してもらわなければならないのですが、駆けつけた医者の治療の前に、毒矢を射られた人が、一体 この毒矢を射た者は誰なのか、どんな身分の者で、どんな名前の者なのか、身長はいくつで、どんな顔の人で、どこから来た者なのか、また、どんな材質の弓で 射たのか、どんな材質の矢じりがついていたのか・・それらが分かるまでは、矢を引き抜いて治療してはいけないと、余計なことばかり聞いてしまっていれば、 結局その間に、その人は死んでしまいます。治療してもらうという目的以外の余計なものに囚われてしまっては、目的から大きく外れてしまうということであり ます。

 つまり、仏教においては、目の前にある現実の苦しみと向き合い、その原因を解明し、そして、その原因を取り除いていき、苦しみを無くすことに努めること以外における無用な議論は、意味のないことだと諭されたのであると解します。

 ただ、お釈迦様は、弟子たちから輪廻のことや地獄のことなどについて、どうしても教えて下さいと質問をされると、全知全能あまねく悟った自らの過去世に おけること、全てにおける輪廻のことから、お答えになられたこともありましたが、むしろ更に現実の苦しみに集中させ、苦しみを無くすという目的のためだけ にあえて答えられたようであります。

 現実の苦しみ、苦しみの原因、苦しみを無くす方法についてしっかりと学び、実践して、苦しみを確実に無くすことが、何よりも重要であると考えます。

 その点で、仏教はある意味で世間の他宗教の定義とはやや異なり、ただ苦しみを無くすための実践方法論に過ぎないとも言えるのではないかと思います。

 また、どうしてもいずれ確実に訪れる自分の死、死後のことがあまりに気になって仕方がないのであれば、もちろん無我において、自分などという「我」はな いのですから、死後の「我」もありえません。そんなことも分からないままに死を迎えようとなれば、無明の闇の中、迷い苦しむことになるわけでありますけ ど、とにかく、自分の死後のことではなくて、自分の死後においても、この無常なる世界に残る全てのものたち、自分の死後に生まれてくるものたちの苦しみを 少しでも無くしてあげるために、今、現実にできることを考えて、日々、慈・悲・喜・捨の心と実践で過ごしていければよいのではないだろうかと思います。

 とにかく、まだ来てもいない未来のことに対して、いくら心配して妄想を膨らませて煩悩を抱えて苦しく過ごしても、仕方のないことなのであります。とにかく仏教では極限まで現実を直視していかなければならないのであります。

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2008年1月5日土曜日

施本「佛の道」・第十七章 煩悩への対処

施本「佛の道」・第十七章 煩悩への対処

 煩悩、悩み煩う原因は、無明の闇において、無常・無我・苦・中道が理解できずに様々に妄想することによって主に生じてしまっています。その中でも、特に我執、妄執、愛執などの執着を離すことが、煩悩を無くす上でも重要なことであります。

 しかし、現実に煩悩を無くすということは、非常に難しいことでもあります。そこで、少し煩悩への対処について、アプローチを変えてみてもと思います。

 なかなかに煩悩は無くならず次から次に生じてくる、でもその煩悩を相手にせずに、その煩悩から出てくる「我」・「渇愛」・「妄想」などに執着をせずに、 ほったらかしにしておくことで「煩悩」を離しておけば、生じてくる煩悩について、ついつい無理に「無くさなければ」、「無くさないと」と考えなくても済む ようになります。

 煩悩が出てくれば、「ああ、また出てきたのか、こんにちは、でも、さようなら」としておくのであります。そうすれば、様々な煩悩もすぐに生じては滅する 無常なる中、あっという間に過ぎ去っていきます。囚われてしまうと苦しみになりますので、それだけは気をつけておかなければいけません。

 また煩悩と同様に、あらゆる執着物・所有物・束縛物についても、例えば、恋人・伴侶・子供・孫、家族、友人、財産・モノなども瞬間瞬間に「こんにちは、 でも、さようなら」として、さらっと過ぎ去らしておけば、余計な苦しみを抱えることはないのであります。そしてすぐに次の瞬間には、私もそしてそれらのも のも、既に全く新しく変わっているのであり、「また、こんにちは、でも、さようなら」、「あら、また、こんにちは、でも、さようなら」として、瞬間瞬間、 新鮮な無常、執着が無いことを楽しんでいければ良いのではないかと思います。

 少し先にも触れましたが、涅槃における楽とは、あくまでも苦しみが減っていくこと、無くなっていくことの意味であります。苦しみが完全に無くなって、そこで完全な楽となり、涅槃に至ったと言えるわけであります。

 煩悩・執着物・所有物・束縛物が生じるのはやむを得ないとして、すぐにさようならをしておくことで、苦しみを無くすようにしてみましょう。多少はまだま だそれらに囚われるのは仕方のないことですが、さようならをするために掛かる時間を徐々に短くしていき、やがては生じたその瞬間にしっかりとさようならを していけるようになれば、それで苦しみの無い、涅槃になると言えるのではないかと思います。

 ですから、我執に取りつかれたまま、「自分は煩悩が次から次に湧いてきてもうだめだ」とすぐに挫折するのではなくて、「まあ、煩悩が湧いてくるのは仕方 ないけど、すぐにさよならさせていくぞ」と努力していくことにすれば、時間は掛かっても少しずつ涅槃へと近づけるのではないだろうかと思います。

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2008年1月4日金曜日

施本「佛の道」・第十六章 現実の瞬間瞬間を生きる

施本「佛の道」・第十六章 現実の瞬間瞬間を生きる

 世間の現実は矛盾だらけであり、世界においても激しい生存競争、争い事、犯罪、資源の貪り、自然環境破壊、戦争などは絶えず、現在の日本社会でも政界・ 官界・財界における汚職腐敗は絶えず、醜い偽装・詐欺・粉飾・談合事件が横行し、欺瞞に満ち溢れてしまっています。また、財政難による増税・高負担が押し 寄せ、高齢者や障害者など社会的に弱い者たちの苦しみは、実に顕著・甚大となり、更には生活する全ての者にとっても、ますます生きていくことが苦しくなっ てしまっています。

 そのような現実と、私自身、地域において福祉活動や市民活動などの社会活動をしていく中において、徐々に世の中の様々な矛盾に対して、懐疑主義から、冷 笑主義、諦観主義、虚無主義になり、どうせ死ぬのに、いずれ人類も絶滅するのに、宇宙もやがて滅するのに、何をやっても無意味で、あらゆることは無に帰す る中における程度の問題であると、「無帰論」を表したり、どこか厭世主義に近いところまで陥ってしまった時期があります。

 しかし、それも今になって振り返ると、「我」に執着していた「我執」がゆえに陥ってしまった傲慢、不満・不安・恐怖などの悪感情の連鎖、循環が生み出したものであり、あのままでは危うくどうしようもない悲観主義にまで至るところでありました。

 自身の苦しみの一つの原因は、「我執」にあったわけであります。つまり、「我」はないのに、「自分が」「自分は」「自分に」「自分を」「自分で」と「自 分のこと」が中心となって様々なことを考えてしまい、妄想を巡らしてしまっていたわけであり、無我の理解が全くできていなかったのであります。

 また、誰もがいずれ死ぬことは確かでありますが、無常であるからこそ、因縁の中で生かされて生きていけ、今の瞬間、瞬間を生きることができるのであっ て、しかも、精進努力によって因縁を可能な限りにおいて調整することで、無常の変化自体の方向を少しぐらいは変えることもできるのであります。

 無常を悲観的に捉えるのではなくて、逆にこれから一体どうなっていくのだろうか、少し因縁を調整して無常の方向を慈・悲・喜・捨の実践で変えてみようかな、と楽しんでいければ良いのではないだろうかと今は思っています。

 また、一瞬一瞬が新しい自分であります。一瞬一瞬が新しい全てであります。嫌なこと辛いこと苦しいこと、楽しいこと、嬉しいこと、どんなことがあっても、もう次の瞬間には新しい自分がいるのであります。瞬間瞬間、執着を無くして楽に生きていければと思います。

 さて、自身、色々ともがき苦しむ中において、一つの出会いがありました。それが、日本テーラワーダ仏教協会さんとの出会いであり、仏教について改めて学 びを進めていく契機となりまして、ようやくに自身における今日的な無常・無我・苦・中道の理解ができるようになっていった次第であります。もちろん、まだ まだ未熟な理解に過ぎないのでありますが・・更に精進努力していきたいと考えております。

 とにかく、慈・悲・喜・捨の心を常に持って、心を平穏に落ち着け、現実の瞬間瞬間を善なる清浄な心、善なる清浄な実践で生きていければと思います。全て は過ぎ去る無常であります。悪感情を抱いてしまったりした瞬間の自分は、もう次の瞬間にはどこにもないのであります。そこで悪感情に蝕まれて、囚われてし まい執着して死ぬまで苦しみ続けることは、実に愚かなことであります。瞬間瞬間を慈・悲・喜・捨で一生懸命に生きていくこと、それが苦しみの無い安楽なる 幸福に満ち溢れた涅槃への一歩であると考えます。

 涅槃は真理に気づけば、その瞬間にもたらされるものであります。真理への気づきを常に保ち、忘れないこと、それが大切であると考えています。

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2008年1月3日木曜日

施本「佛の道」・第十五章 少欲知足

施本「佛の道」・第十五章 少欲知足

 少欲知足《しょうよくちそく》とは、欲を少なくして、足るべきを知るということであります。

 無常・無我・苦なる真理の前では、具体的に執着、所有、価値は成り立たないことについて先に述べてきました。

 どんなに欲を出して、あれがほしい、これがほしい、もっとほしいと求めても、結局は満足できずに不満の中、苦しみ続けることになってしまうことは、ある程度ご理解して頂けたと思います。

 では満足して、幸せに生きるためにはどうすればいいのかと言いますと、その答えが、この少欲知足なのであります。

 私たちの幸福・満足というものを簡単に「楽」とするならば、苦しみが減っていくことが、楽というものであって、苦しみが無くなって、それから楽というも のが何か新しく出てくるというわけではありません。始めから大いに抱えてしまっている苦しみが、少しずつ取り除かれていくことが楽なのであります。言い換 えると苦しみの度合いが和らいでいくことが楽なのであります。

 つまり、完全な楽とは、苦しみが完全に無くなったということであり、それで完全な幸福、涅槃に至ったと言えるわけであります。

 その点で、世間における苦しみを紛らわすための快楽や享楽の楽とは全く違う意味合いでありますので気をつけなければなりません。

 少欲知足、自分はここまでで足りるのだということをしっかりと知って、欲を少なくして、欲を抑えること、これ以上の苦しみを生み出さないように、「ほし い」という渇愛、「もっとほしい」という執着を抑えることによって、そこでようやくに満足ができるということであります。ますます膨れ上がろうとしていた 苦しみも、そこでやっと止まるわけであります。

 また、生きていく上で必要以上に貪るということは、他に大いに迷惑を掛けているということでもあります。今の人類は便利さ、豊かさのために必要以上に贅 沢をし、資源を貪ってしまっています。人間の内における奪い合いの争いもそのために起きていますし、他の生き物たちも人間の強欲のために大いに殺され、絶 滅を迎えるものも出てきてしまっています。資源の貪りによる自然環境破壊、地球温暖化などによって生態系にも狂いが生じ、直接的にも間接的にも他に大きな 迷惑を掛け過ぎている状況であります。

 少欲知足によって、ようやく他に迷惑を掛けないようにもなるわけであり、少欲知足で生きること、ただそれだけでもまさに善行為と言えるのであります。何 も難しいことはありません。誰でも簡単に、誰の助けも借りることなく、今すぐにでもできる仏法の実践、その一つが少欲知足の善行為なのであります。

 お釈迦様がお亡くなりになる直前、まだまだ修行未熟で悲しむ弟子たちを前に、最後の言葉を残されました。その言葉は涅槃経・遺教経などに記されています が、その一つに、涅槃へと至るためには少欲知足の実践が大切であるということも説かれました。遺教経における八大人覚《はちだいにんがく》(少欲・知足・ 楽寂静・勤精進・不忘念・修禅定・修智慧・不戯論)の中でもこの少欲知足が示されています。

 更に、涅槃を目指すために必要な教えにつきましては、五根五力(信・精進・念・定・慧)、七覚支《しちかくし》(念・択法《ちゃくほう》・精進・喜・軽 安・定・捨)としてもまとめられています。それぞれの内容は、本論の他のところにおいてもおおよそ触れてありますので、内容が重なるため、ここで改めての 詳しい説明は控えておきます。

 そして、最後にお釈迦様は、仏法を拠りどころとして、諸行の無常なることをしっかりと悟って、涅槃へ向けて怠ることなく精進努力を行いなさいとおっしゃられたのであります。

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2008年1月2日水曜日

施本「佛の道」・第十四章 慈・悲・喜・捨

施本「佛の道」・第十四章 慈・悲・喜・捨

 慈《じ》・悲《ひ》・喜《き》・捨《しゃ》は、四無量心《しむりょうしん》とも言われるものであり、悪い感情を静めて心を清らかにし、また煩悩を無くしていくためにも、仏教においては大切な実践になります。

 慈は、慈しむ心のこと、または友情心のこと、悲は、憐(哀)れむ心のこと、喜は、一緒に喜ぶ心のこと、捨は、偏見や差別を捨てる心、または平等で落ち着いた平穏な心のことであります。

  慈悲と二語で表されることもあり、この場合、慈は、慈しむ心で楽を与えること、悲は、憐(哀)れむ心をもって苦を抜くことで、抜苦与楽《ばっくよらく》と も言われます。喜捨も二語で表されることがあり、我執、偏見、差別を捨てて、一切のものに対して平等の心を持ち、共に喜びを分かち合うことであります。

  四無量心は、あらゆる全てのものに対して変わらない平等の慈しみ、優しさを持つこと、一切皆苦の中で、あらゆるものが苦しんでいることを憐(哀)れみ、 「我」を捨てて「無我」を自覚し、「我執」・「妄執」・「愛執」などの執着も捨てて、煩悩を滅し、苦しみから解脱した喜びを共に分かち合うために必要な心 のあり方を示す重要なものであり、涅槃へと向かうために、このことを常に念じ、実践することが大切となります。

 慈・悲・喜・捨の実践でよく混同されがちであるのが、世間一般で行なわれている「慈善活動」・「ボランティア」・「社会奉仕」・「社会貢献」・「国際貢献」・「寄附行為」などがあります。

 これらは、大部分、当たり前のように善行為として考えてしまうところがありますが、実は結果として悪行為となってしまうこともありますので、非常に注意が必要であります。

  世間一般で行われるそれらの活動・行為は、やはり人間社会の中で、自分たち人間のためだけの仲間内のことに留まってしまっていることが多くあります。それ では、あらゆる全てのものに対しての平等性からは離れてしまい、では他の生命たちに対してはどうなのか、他の生命たちの苦しみは無くせたのか、他の生命た ちと共に苦しみの無くなった涅槃の喜びを味わえたのか、ということについても考えなければいけません。

 そこでもやはり、中道が担保されて自分・家族・仲間・会社・社会・国・人間の主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素は排除されていなければならないのであります。

  ですから、いくら自分は「慈善活動」・「ボランティア」・「社会奉仕」・「社会貢献」・「国際貢献」・「寄附行為」をやっているのだと言っても、何らかの 見返りを求めて欲を出してしまっていたり、中道から外れてしまっていれば、結局は、善行為どころか、色々と逆に迷惑を掛けていたり、悪行為をしていること となり、結果的にも苦しんでしまうこともあります。

 中道から外れたまま、それらの活動・行為をし、我に執着したままで続ければ、「自分 は自分の色々なものを犠牲にして、善行為をしているのに、なぜ苦しいことばかりが結果として生じるのか」と更に苦しむことになってしまうこともあります。 世間でよく見受けられることですので気をつけなければなりません。

 それらの活動・行為では、あまねく全てにとってのために役立っているのか、あまねく全てのものにとっての喜びになっているのかということも考えなければならないわけであります。

  もちろん、あえてそれらの活動・行為をしている、しようと思うのではなくて、所詮は「無我」なのですから、それらの活動・行為をしている「我」をしっかり と捨てれば、欲も生じませんし、活動・行為の内容や結果に執着して、「あれほどに私が活動・行為をしたのになぜなのだ」と苦しむこともないですし、それよ りもそれらの活動をする、しないに拘わらず、しっかりと四無量心を常に念じて、その心で生きていくこと自体が実は大切なことであります。

 ことさらに世間で善行為だとして奨励されている「慈善活動」・「ボランティア」・「社会奉仕」・「社会貢献」・「国際貢献」・「寄附行為」にこだわることもないのであります。

 また、無常・無我・苦・中道をしっかりと理解できていれば、自然に四無量心で生きていけるということでもあります。四無量心を持てなければ、養えなければ、やはりまだまだ修行不足であるということの検証もできるわけであります。

 四無量心を持てれば、不満、貪り、怒り、高慢、怠惰、嫉妬、怨み、蔑み、恐怖、不安、心配、憂い、後悔、昏沈、掉挙などの悪感情は全て除かれていきます。苦しみの劫火に焼かれずに済むようになります。

 ここで、私が学びを進めさせて頂いております、日本テーラワーダ仏教協会さんの慈悲の瞑想の言葉を記しておきたいと思います。皆さんも是非、この言葉を毎日継続して、少しでも時間のある時に念じてみて下さい。そして少しずつでも慈悲を実践していきましょう。

慈悲の冥想

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願い事が叶えられますように
私に悟りの光が現れますように

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願い事が叶えられますように
私の親しい人々に悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願い事が叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように

私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願い事が叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願い事が叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

慈悲の冥想ここまで

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2008年1月1日火曜日

施本「佛の道」・第十三章 空

施本「佛の道」・第十三章 空

 ここで空論を展開するのは若干気が引けることではありますが、少しだけでも触れておければと思っています。

 いわゆる「一切皆空」、「諸法皆空」のことでありますが、これは「諸法無我」を補完した派生的なものであると考えます。

  特に空論を教学的に体系化した龍樹《りゅうじゅ》が確立したのは、「縁起空」と呼ばれ、現象・存在は全て縁起(因縁)によって仮に設けられたものが空であ るとして、二元論的に現象・存在に有があるということを前提として、その有に対しての否定における空を意味するものではなく、この場合の「空」は、本来的 に否定を受ける有すらないという意味での空というものであります。

 また、縁起そのものが空であり、現象・存在において他に空でないものはなく、他に縁起でないものもないという意味での空でもあります。

 この縁起空は、諸法無我だけでなく、中道を示すものの補完でもあると考えられます。
  何ら偏りの無い、何ら差別の無い、何ら囚われの無い立場で、ただ縁起をあるがままに受け入れて認めて、そこには苦も無く、楽も無く、非苦非楽も無い、上も 下も、右も左もその中間も無い、当然に我もなく、執着できるものも無く、所有できるものも無く、意味や価値などももちろん無いのであります。

  縁起空は、無自性が空であるとして、始めから我は無く、始めから執着をするものは無く、始めから何も捨てるものすら無く、始めから何も価値が無いという、 完全な無我、無執着・無所有・無価値などの理解によって、煩悩・苦しみを滅するために説かれたと解するのが妥当ではないだろうかと考えています。

施本「佛の道」・各章
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